2025年2月19日にnoteで公開した記事のリバイバル。
最近ぼんやり考えていたのは、「同じ本、同じ場面を読んでいても人によって全く違う情景を思い浮かべてる、それって面白いね」である。
例えば家族で食卓を囲むシーンがあるとする。
テーブルクロスがかかってるかもしれないし、テーブルに少し傷がついてるかもしれない。
お皿は真っ白のシンプルなものかもしれないし、逆に北欧風のカラフルなものかもしれない。
こんな些細な事は特筆されていない限り、基本本文では語られないものである。
同じワンシーンでも読む人によって千差万別である。
そういえば「同じ世界を見ているはずなのに、人によって見え方、捉え方が違う」みたいな事言ってた科学者がいたような気がする。
どんなのだったっけ?
ふんわりした認識でGoogle検索したら、「自分と他人の見えてる世界は違うんだから他人とわかりあう為には自分の視点を変えてうんちゃらかんちゃら」みたいな自己啓発文章がたくさん出てきた。
あーそういうの求めてないです。
画面に向かって思わずそう言いそうになった。
新聞購読のセールスを断る時ってこういう気分なのかもしれない。
ChatGPTに聞いたらクーンの「パラダイム論」だと教えてくれた。
あーなんかそんな名前だったな。
AIも堂々と間違った情報を提示してくる時があるので全面的に信用は出来ないんだが、この情報は合っているようだ。
自己啓発というもの
私の文章を客観的に見ると、結構自己啓発っぽくなっていると思う。
自己啓発文章が嫌いなのに自己啓発してるのは矛盾してない?と思われそうだが、単に自分の考えている事を深掘りしているだけで、それが結果自己啓発っぽい文章になっているだけである。
あくまでも自分の考えをまとめているだけに過ぎない。
noteという形で公開している以上、その文章が誰かに刺さるかもしれないし、刺さらないかもしれない。その程度のものである。
巷に溢れる自己啓発書とかそういった文章の類は「まず⚪︎⚪︎しましょう!そうすれば△△出来るはずです」という論調のものが多い。
なんだか押し付けがましいのである。
ここまで書いといて何だが、私は自己啓発本の類を全て否定したいわけではない。
たまーに気まぐれに読んだ自己啓発本で「そういう視点もあるのか〜」と納得した事もある。
でもこの気付きって別に自己啓発本に限ったものじゃない。
小説、漫画、アニメ、ゲームとかでも「そんな視点あるんだな」と感じる事は多々あるわけで。
コンテンツに限らず、他人と話していてもその気付きを得る事はある。
結局のところ、自己啓発的な気付きなんて日常の些細なところからぽろっと生まれる可能性もあるわけである。
「自己啓発しよう!自己啓発本読もう!」と意気込むものでもないんじゃないの?と思ったりしたとかなんとか。
「つまりね!自己啓発本を読むとかじゃなくてね!日常的にアンテナを張っておく事で気付きが得られるんですね!」
この一文、それっぽいけどめちゃくちゃ鬱陶しいな。
(こういう記事が溢れてるnoteで言うなという話ではある)