2025年2月13日にnoteで公開した記事のリバイバル。
趣味の話。
現代社会には娯楽がゴロゴロ転がっているし、物も豊かだ。
趣味がある人はたくさんいるだろう。
ところで、趣味とは生活に必須なものなのだろうか?
いや必須なものではないはずだ。そもそも必須になってしまったらそれは趣味と定義出来なくなってしまうのではないか?
趣味を辞書で引くと、
仕事・職業としてでなく、楽しみとして愛好する事柄のこと。
楽しみとして愛好する事柄。
自分ではどうなのか考えてみる。
といっても私はかなりの趣味人だと自負している。
絵を描いたり見たりすること、散歩、編み物をはじめとした手芸、noteで文章を書くこと、ぬいぐるみを集めること、読書、ゲーム、YouTubeで動画を見ること。
挙げきれない。多すぎる。
これに全て文句をつけてみる。
絵を描くといっても練習ばっかやって外に発表出来る作品をめちゃくちゃ描いてるわけじゃないじゃん。
絵を見る方も特定のイラストレーターや画家のファンというわけでもないじゃん。好きな画家とかいても全然詳しくないじゃん。
散歩?週何日か少し歩いてるだけじゃん。
手芸も全部中途半端じゃん。
あみぐるみ作ってるとはいえ完成にこぎつけたのめっちゃ少ないじゃん。
noteで文章?毎日投稿しだして2週間ほどしか経ってないじゃん。
ぬいぐるみ集め?でも集めるだけで写真もろくに撮らないじゃん。
読書もめちゃくちゃ読み込んでるわけじゃないし、有名な本のあれやこれも全然読んでないじゃん。
ゲームもそんな上手くないし複数タイトル少しずつやるのって中途半端じゃない?
YouTubeで動画見るのも最近始めた事じゃん。新参リスナーじゃん。
文句に文句をつけてみる。
んな事言われたら趣味なくなっちゃうよ。
でも世間一般の趣味ってある一定のラインがあって、そのハードルを越えられたら趣味として名乗れる、みたいな暗黙の了解がある気がする。
これも例えのあるある話なのだが
A「読書好きになったんですよ〜(最近読書するようになって数冊話題の本を読んだ)」
B「あぁそうなんですか!私も本読みますよ!私は⚪︎⚪︎(作家)の作品のこういうところが好きで〜、そういえば話題のあのベストセラー読みました?」
熱量があるのは分かったから待ってくれ。
Bさんの中では読書好きイコール⚪︎⚪︎(作家)は当然読んでいるものであり、話題のベストセラーも当たり前のようにチェックしているという事になる。
対してAさんはまだ数冊話題の本を読み始めただけの人だ。
それでも読書の楽しさに目覚めつつある。
だがAさんは一般的ににわかの烙印を押されてしまうことだろう。
私もここまで極端ではないにせよ、実際似たようなパターンに何度も遭遇している。
結果、熱量のある人との温度差を感じ、インターネットに数多ある「同じ趣味の同志よ集まれ〜」みたいなところにはあまり近付かなくなった。
そう、世間一般における趣味はなぜかハードルが高い。
知識量やかけたお金のマウント合戦をしているのもよく見かける。
ここで冒頭の趣味を辞書で引いた文章を思い出してほしい。
仕事・職業としてでなく、楽しみとして愛好する事柄のこと。
楽しみとして愛好していれば何でもいいらしい。
その楽しみを愛好するために他人は必要だろうか?
もちろん趣味の話を他人と共有する楽しさはある。
が、それ抜きでも成り立つものが趣味ではないのだろうか?
(そもそも他人がいなきゃ実行出来ない複数人でやるスポーツみたいなのはまた別。ややこしいな)
そこに知識量やかけた時間などは関係ない。
注目すべきは自分が楽しいかだけである。
好きだからこそ知識量が増えたり時間もかけるわけだが、そこは個人差に過ぎない。
楽しいならどんなに些細な事だって構わないし、おおっぴらに言いづらいいかがわしいものでも構わない。
散歩の帰りにラーメンを食べるのが趣味でも全然構わない。
人間誰しもそういった些細な楽しみは生活の中にあるはずで、自称趣味がない人というのは自己分析が足りていないかよっぽど生活に余裕がない人くらいなのではないか?と思う。
多様性が謳われている社会なんだし、趣味への取り組み方や趣味そのものの多様性があったっていいじゃない。
世間に認められる立派な趣味が無くても、自分の中で楽しめる何かがあって、それが生活に潤いを与えているのならそれでいいじゃない、と思うのであった。