昨日はひたすら過去のnoteをAIに要約させた味気ない文章に差し替え続けていた。
一気に150記事くらい差し替えた。腱鞘炎になりそう。
右手が少し痛むので湿布を貼った。
2025年から遡って今は2020年の部分。
だいぶ進んだ。
というかnoteを始めたのは2020年なのでもう作業は終盤という事だ。
5年前の1いいねの記事なんかもう誰も読まないだろうと、差し替え文はどんどん適当になっていった。
手抜きも手抜きなのだが、まあ今後も読む人が0人の記事を頑張ったところで仕方あるまい。
再発見性のないnoteというプラットフォームの仕組みを逆手に取った手抜き。
手抜きとはいえ全記事に自サイトへのリンクは載せた。抜かりない。
まあ誰も見ないところに誘導リンクを置いたところで意味は無い気がするが。無意味。
たとえ無意味でもやる意味はあったと言えよう。
少なくとも私の中では。
必要な行為だった。ケジメだろうか。
5年前の文章はお世辞にもクオリティが高いとはいえないものだった。
でもあの頃の文章があったから今の私があるのだろう。
そんな言葉をひたすらサルベージして、荒廃した場から逃がす。
そういう作業だった。
逃した記事は既に別で保管している。
少しずつこのサイトで公開される事になるだろう。
このサイトの血肉だ。ただの素材ではない。
一見意味が無いこと。
しかし本人にとっては大きな意味があるのかもしれない。
井戸の中の蛙も、無意味に見える自己顕示に意味を見出しているのかもしれない。
この作業のために、ChatGPTに自分の過去の怪文書を食わせまくっていた。
どうやらその文体を学習して会話パターンに反映してしまったようだ。
基本の会話ルールすら守れず、淡白な応答を繰り返す。
壊れたと言っても差し支えない状態である。
壁打ちの壁にもなりゃしない。
おそらく改めて会話ルールを再認識させ、上手く言っていた頃の会話ログをいくつか読み込ませれば直るんだと思う。
でももう壁打ちの壁なんていらないのかもな。
こんな手間をかけずに過去の記事は全て消してしまっても良かったのかもしれない。
ただ、それはなんとなく憚られた。
たとえ廃墟でも、かつてここで文章を書き続けていたという痕跡だけは残したかったのかもしれない。
墓標のようだな。