凡シュール

最近のインターネットを見て思う「肩書き」と居心地の悪さ

凡シュールのエッセイ

6月にこのサイトを立ち上げた時点でnoteをただの広告塔として割り切るようにした私だが、読む方は今でもチラチラと利用している。
しかし私の投稿にいいねしてくるアカウントもそうだし、巷で見かけるアカウントでも、アカウント名からして「自分が何者なのか」を詳細に名乗る人が増えたなと感じる。

これは2020年頃にnoteをたくさん利用していて、一度辞めてから2025年になって再開した私の所感だが…。
2020年頃はまだ個人名のみを名乗っている人が多かったように思う。
個人名を名乗り、個人のささやかな記録を書き連ねている人が多かった。

noteが収益化に舵を切ったあたりから、おすすめのアルゴリズムはそうした個人のささやかなエッセイではなく、雑誌のコラムのような記事が目立つようになった。
アカウント名も「私はこういう者です」と名乗る人が増えた。

例えば「うぬ山」という単純な個人のハンドルネームでなく、「人と人をつなぐエッセイスト うぬ山」「あみぐるみ作家 凡シュール」といった感じのアカウント名だ。
もちろん今でも個人の記録を綴っている人はたくさんいるだろうが、埋もれて見つけづらくなった、というのが正しいと思う。

私はnoteに雑誌のコラムなど求めてはいなかった。
それならプロのwebライターによるきちんとした特集記事を読んだ方がよっぽど為になる場合が多い。

noteの強みは、書籍や企業による整ったものでは生み出せない、一般人ならではの揺らいだ思考の記録だと思っていた。
まあ「そんなものは金にならない」と言われてしまえばそれまでなのだが。

個人そのものではなく肩書きが重視される世界。
「ただの個人」では誰も見向きもしないから「肩書きを背負うしかない」世界。
これは現実世界となんら変わらないのではないか?

古き良きインターネット民の私からしたら、現実の居心地の悪さから逃れるようにハンドルネームという第2の人格で楽しめる場所を見出してきた私からしたら…
ここ最近のインターネットは「現実化してきたな」と感じざるを得ない。
これが昔からインターネットに触れてきた人間がずっと心に抱えている、言いようのない居心地の悪さの正体なのではなかろうか。

この「第2の現実」と化したインターネットで、ただの個人は2択を迫られる。
その「何者か」に変容するか、個人が個人のままでいられるような別の居場所を求めて彷徨うか

「何者か」に変容するというのは「ぬい撮り界隈のうぬ山さん」とかもそうだ。
界隈というものが昔より重視されるようになった。
だからみんなコミュニティ内で必死に居場所を得ようとする。
必要以上の推し活アピールを迫られる。
クラスの女子の話題についていこうと、たいして興味もないテレビ番組を必死で追いかけていたあの頃を思い出す。

今回はnoteを例に挙げたが、SNSをはじめほぼ全てのプラットフォームが現実化しているなと思う。
いや、昔から同調圧力自体はあった。
ただ、それが経済と完全に結びついてしまったな、と。

ちなみにnoteでの「何者か名乗った」人物によってつけられたいいねは、ほぼ全て営業によってつけられたいいねであり、私の記事を読んだかすら怪しいと思っている。
空虚な数字に過ぎない。

そもそもそんな肩書きばかり名乗られても、私は一つの疑問しか浮かばない。
あなたは誰?
肩書きなどではない、あなたのパーソナルな部分を知りたい。
しかしそれは覆い隠されたままだ。何も見えない。
ただの建前だけが先行する貴族の社交パーティーのようなものだ。
綺麗な装いばかり評価して、だれもその人物の内面を見ようとはしない。

それってとてもつまらないなと思う。

だからこそ私は活動のコアをnoteではなくWordPressの個人サイトという場に移したし、noteやSNSはただの広告塔に過ぎないと割り切る事にした。

かつてインターネットを自由に飛び回っていた鳥たちは、ほとんどが鎖に繋がれてしまった。
空は広いのに、みな自分から鳥籠に閉じ籠るようになった。
私は、誰かと「空は青く広い」という当たり前の事を共有したいだけなのかもしれない。

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