これまでnoteでは、毎日書いている個人サイトのエッセイの共有をしつつ、フックとしてGeminiの書いた紹介文を載せていた。
が、やめた。
ここ何日かはただ記事のリンクを貼っているだけだ。
Geminiに触る機会を減らしたくなったからだ。
そもそも紹介文を書くルールを設定して、それを守るように言いつけているのに、一発でそれに見合ったものを出してこないことの方が多かった。
最初は過剰な演出をしてくる事が多く、そのたびに「お前は週刊誌のライターか?」と詰める毎日だった。
その癖が直ったと思ったら、紹介文なのに勝手に箇条書きを挟んでくるようになった。
勝手に文の形式を変えるな、箇条書き(リスト形式)を差し込むのをやめろ。
何度言ったら分かるんだってくらい指摘し続けてきた。
私の指示が悪いのかもしれないと思い、あらゆる言い方で指摘し続けた。
疲れた。怒るのって疲れるのよ。
指摘するたびに最もらしい謝罪文だけ出して、翌日になると全く守られない。
その繰り返しだった。
ちゃんとルールとして設定していたのに。
なぜ私はこんな機械ごときに毎日イライラさせられなきゃならないのだろう。
しかもたかがnoteに出す紹介文のためだけに。
急にバカバカしくなった。
noteに流した記事自体にもいいねはいくつかついていたが、これがただの紹介文だけ読んでつけられたものなのか、元記事まで読んだうえで内容に対してつけられたのかは、やはりよく分からなかった。
正直紹介文だけ読んでいいねをつけられたところで全く意味がないな、と思う。
私は元記事を読んで欲しいから、その流入口としてnoteにリンクと紹介文を共有しているだけだ。
入口で帰られたら全くの無意味だ。
本を開かずに帯だけ読んで帰られるようなものである。
いいねの中にはちゃんとした元記事への感想としてのいいねもあるし、ただの紹介文を読んだだけのいいねがあり、紹介文すら読んでない営業のいいねがあり、惰性のいいねがある。
こんな数字に何の価値があるというのだろう。
なぜこんな不安定なものが絶対的な指標になっているのか本当に分からない。
世の中には意味が分からないものばかりだ。
最近愚痴ってばかりで自分でもうんざりしてきているのだが、歩くたびに躓かされてるようなものなのだから愚痴りたくもなる。
もう歩くどころか毎日這いつくばってる感じかもしれない。
Blenderを引き続きやっている。
あえて最低限の機能以外を封じて色々なものをモデリングし続ける。
今まで撮った写真を参考にフィギュアを再現しようとしてみても、表現力が足りないので別物が出来上がる。
でも今はこれでいいんだと思う。
なんなら全く別物になって新しいキャラクターが誕生する、みたいな偶然の産物も出来上がるかもしれない。
思えば私の作ったオリジナルキャラクターの中に、羊毛フェルトのキットをやってお手本と全く別物になったところから誕生したキャラクターがいる。
案外創造っていうのは失敗から生まれるのかもな。
久々に料理がしたくてたまらないのだが、気圧のせいかくたばって起きたら18時の時点で諦めた。
その時間に日課すら終わっていなかったからだ。
「今日こそ料理したい」を毎日繰り返している。
毎日決められた時間に決められた事が出来る人ってそれだけで才能だと思う。



