2021年5月11日にnoteで書いた記事のリバイバル。
現在移行作業中のため一時的に読みづらくなっていますが後日修正予定です。ご了承下さい。
世の中にブチギレ始めた今の私の片鱗が見える。
まさに今の私に通底しているとも言えよう。
レシピにある「適量」という表記。
料理を始めた当初、わたしはこの表記に戸惑った。
「適量ってどのくらいなんだよ」
「適量」には理由があるらしい。
例えば、材料の中にジャガイモ3個があったとする。
そのレシピ通りにジャガイモ3個を鍋に放り込んだ。
調味料もレシピに合わせて軽量スプーンなどを使う。
だが、レシピ通りに作ったのに味が濃くなってしまった。
この場合、レシピの想定しているジャガイモのサイズと、実際のジャガイモのサイズが違う可能性がある。
想定では大ぶりだったが、実際に使ったのは小ぶりのものだった。
このように、食材…特に生鮮食品は大なり小なり個体差がある。
そのため、レシピ通りに作ったとしても完全に再現出来るわけではない。
そのため、適量と表記しているらしい。
料理というのは結構感覚的なのである。
そのへんの感覚は味見や経験で培っていくしかないのだ。
理由を知ったうえでも、やっぱり初心者のために目安としての基準値は欲しいなと思うけれど。
がらっと話題を変えるが、北海道はだだっ広い。
道産子の言う「ちょっとそこまで」は車で何十分もかかる距離である。
有名な”でっかいどう”ネタだが、本州の人間の「ちょっとそこまで」はせいぜい車で5分か10分程度のものだろう。
これが北海道と本州の感覚の差である。
「ちょっとそこまで」と言われると曖昧だが、「車で15kmくらい先かな」と言われたらきちんと伝わる。
「少々お待ち下さい」という言葉だってそうだ。
「少々」とは人によっては1分だったりするし、15分だったりする。
「ちょっと遅れる」だってそうだ。
人によっては5分遅れ、ルーズな人なら1時間以上でも「ちょっと」の範囲だ。
「少々」や「ちょっと」なんて曖昧な言葉を使わずに、「5分待ってください」「13時に着きますよ」と言われれば感覚によるズレは無くなる。
5分は5分だ。13時は13時だ。全ての人に共通している。
このように、数字とはとても便利なものだ。
全ての人の共通言語。
そんな便利極まりない数字だが、決して万能ではない。
例えば、最近はSNSのフォロワーとかイイネなどの数が重視されている。
Youtubeでもチャンネル登録者数を増やすために邁進している人ばかりだ。それ自体を否定するつもりはない。
個人的に、フォロワー数などという他人依存なものを目標に掲げるのはどうかとも思うが。
それはまあいいとして、わざわざフォロワーを金で買う人も存在する。
バカバカしい。
そんな見せかけだけの数字に何の意味があるのだろう。
いや、意味はある。なぜなら?
その見せかけだけの数字に騙される人が世の中にたくさんいるからだ。
この時代、数字さえあれば評価される。
たとえ中身がスッカスカでもだ。
同じ発言でも、フォロワー200人の奴と20万人の奴では影響力は段違いだ。
どんなに薄っぺらい事を言っていても、発言者がフォロワー20万人というだけで、みんなすっと受け入れてしまう。
そこに疑問はない。
不思議なものである。
私は、実はTwitterのフォロワーは約2000人と、そこそこいる。
これは10年ほどやってきた名残なのだが、昔は来る者拒まずスタンスで、フォローされたら特に興味無くても無条件でフォロー返しをしていたりしたからだ。
正直今となってはほぼ無価値だと思っている。
まさに形だけのものだ。まやかしだ。
今はタイムラインすらろくに見ていないというのに。
フォロワー数が多くても薄っぺらい人間はたくさんいるし、たくさん売れてヒットしたものが”いいもの”だとは限らない。
数字に惑わされるな。
流行ってるからって、良さも分からないのになんとなく「いいね〜」なんて言うんじゃない。
そんな人間は大嫌いだ。
逆に、流行ってるからという理由だけで否定にかかる天の邪鬼気取りも大嫌いだ。
自分に嘘を付くな。きちんと見て聞いて判断しろ。
自分の好きなもの、いいと思うものくらい自分で考えろ。
