2021年2月17日にnoteで公開した記事のリバイバル。
現在移行作業中のため一時的に読みづらくなっていますが後日修正予定です。ご了承下さい。
論理的思考の目覚めとも言える文章かな。
今の私にも通ずる部分である。
学生時代、私は数学が大嫌いだった。実際数学嫌いな人は多い。 「数学なんて勉強しても将来に役に立つの?」 子供の頃こう思った人は結構多いはずだ。
だが、数学の証明問題の解答と文章の書き方は似ているなと思う。 この毎日書いてるエッセイ文のような文章でいうと…
「○○は○○だと思った」←これが結論でメインテーマ。 まず経緯を説明する。 どうしてメインテーマの思考になったのかの根拠を説明する。 これは過去の経験などによるものかもしれない。
そして最後に再び結論に至る、と。
何だかふんわりした説明になってしまった。 実例を交えて説明しよう。
例は「校長先生の話がつまらない理由」 先日記事にしたものだ。
タイトルがそのまんま主題になっている。 まず学生時代の校長先生の話はもれなくつまらなかった、例外はあれど校長先生の話というものはつまらないものだ。という経緯の説明。導入部分。 では「なぜつまらないのだろう?」という原因で、話の内容もさることながら話し方に問題があるのではないかと分析している。
逆に話が上手い人は話し方に抑揚などがあって聞きやすいという説明をしつつ、色々な人の話し方に注意を向けてみると面白いという言葉で結んでいる。
結構だらだら書いた文章ではあるのだが、「ここは導入、ここは説明、最後に結び」ときちんと構成はされている。 この構造が数学の証明に近い気がするのだ。
最終的に何が言いたいかっていうと、一見無関係のものでもよくよく考えたら考え方が近かったり密接に結びついてるかもしれないねということ。 数学の証明問題と文章なんて、一見無関係だ。理系と文系で対極にあるように感じる。
きちんと構成された文章は読みやすいし、文章に限らず、きちんと構成された話は面白い。 こう考えると世の中無駄なものなんて存在しないんじゃないかとも思えてくる。
