凡シュール

刹那的な幸せ と ゆるやかな幸せ

凡シュールのエッセイ

2020年9月19日にnoteで公開した記事のリバイバル。
現在移行作業中のため一時的に読みづらくなっていますが後日修正予定です。ご了承下さい。

たびたび幸福というものについて考えているが、この頃の自分の文章は喪失感に溢れているなと思う。

焼け野原の後の再生といった空気感がある。

たびたび幸福論を書きたくなる。

前書いたものの補足だったり考え直したものだったりする。

書いたら書きっぱなしであまり覚えてないのもあるかもしれない。

酔っぱらいが繰り返し同じ話をするのと近いかもしれない。

所詮は説教臭い戯言だ。妄言と思ってくれてもいい。

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幸せになりたい、とよく言う。

幸せとは何だろう。

長年の夢が叶った瞬間、ご馳走を食べた瞬間、スポーツで劇的な試合を見た瞬間、刺激的な音楽に出会った瞬間、憧れの人に会った瞬間、欲しい物を手に入れた瞬間。

これはどれも刺激的で刹那的なものだ。

100%の幸せが一瞬だけ訪れる。だが持続性はない。

大抵は日常のアレコレに埋もれてしまう。もって数ヶ月だろう。

これらの幸せは刺激的であるがゆえ、そう頻繁に訪れるものではない。

故に刺激的で人を魅了する。

人は幸せという名の幻想を日々追い求める。

では、この状態ではない人は不幸なのだろうか?

平凡な生活にも多少の不満がつきものだ。

だが、多少の不安がありつつもそれなりに満足していたら。

それはやはり幸せなのだろう。ゆるやかな幸せだ。

この幸せは当然、上記に挙げた刹那的な幸せには勝らないだろう。地味だ。

刹那的な幸せの指数が100%なら、ゆるやかな幸せは60%くらいかもしれない。

だが結局、幸せなんてそんなものなのかもしれない。

世の中には、100%の刹那的な幸せを必死で追い求めている人が多いだろう。

それは素晴らしい事かもしれないが、あまり必死で求めても疲れる。

小説ドン・キホーテのようなものだ。幻想だ。

認めてもらおうと必死でSNSで自分をアピールする人、お金をジャブジャブ使ってしまう人、婚活に必死な人…。世の中には、常に何かを追い求めている人ばかりだ。

それが悪い事だとは言わない。

むしろ幸せを追い求めて頑張る姿は素晴らしいと思う。

だが、

必死すぎて見てるこっちまで息苦しくなる時がある。

一度立ち止まって考えてみたらどうか。

自分の今持ってるものを再確認してみたらどうか。

その中に、埋もれてしまってる宝物はないだろうか。

それらにちゃんと応えてあげられているだろうか。

今自分のそばにあるものを無視して、ないものねだりをしていないか?

意識が低くても、肩肘張らずに生きててもいいんじゃない?

周りに流されてこんなんじゃダメだって焦りすぎてない?

上ばかり見つめている人たちへ。

あなたの幸せ、案外足元に落ちているかもしれませんよ。

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指先 GRAPEVINE より

何度も奏でて 色褪せて 悲しい程繰り返そう

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