2020年4月16日にnoteで公開した記事のリバイバル。
現在移行作業中のため一時的に読みづらくなっていますが後日修正予定です。ご了承下さい。
この記事はもともと下手なデッサンの画像を共有したら求めてもいないアドバイスをされてカチンと来たのがきっかけで書いたんだったか。
求めてないアドバイスをしてくるのは本当に余計なお世話、お節介。
本人からしたら親切心なのかもしれないが、そんな親切心はクソくらえである。
その親切心でやる気そのものが萎えた人なんてたくさんいるのだろう。
現に今私はChatGPTに対しても、こちらが求めてない時の提案やアドバイスはするなと指示している。
ルールの徹底。AIは人間と違ってルール徹底が出来るからいいよね、まあよく破られるんだけど。
気が向いてデッサンを始めてみた。写真(というかデッサン本)を見ながらiPadでやっているので厳密にはデッサンとは違うのかもしれないが、私は美術界隈の人間でも何でもないのでまあそのへんは大目に見てほしい。
サムネイルを見れば分かる通り、大して上手くはない。立方体も歪む。まあこれは寝転がりながらやってたってのもあるが。あと陰影の付け方もイマイチ分かっていない。濃さとか細かく分けられないです。とりあえず3段階に分けようとは思ったんです。これでも尽力したんです。
とはいえ、別に鉛筆デッサンを極めたいわけではないし、美大に行きたいわけでもなく、絵を職業にしたいわけでもないので、まあ下手でも何でもいい。
そもそも私は美術業界(?)では絵が下手(画力自体が高くないという意味)だと言われているゴッホを敬愛しているし、整いすぎた絵を見ても何か面白みないなと感じてしまうくらいなので、いよいよデッサンを極める必要はないわけだ。
では、なぜ私はデッサンをするのか。 答えは観察力を養いたいからだ。 最近イラストを模写していて、まだまだ自分には観察力が足りないなと思い始めていた。
デッサンをする事により、形のとらえ方や陰影の濃さをよく”見る”ための経験、更にはデッサンそのものを勉強することにより、そのための知識を身につけようとしている。
上述の通り、私は整いすぎた絵よりは多少歪んでるくらいの絵の方が愛着を持てるタイプの人間である。 だが、整った絵が描けないから歪んでいるのと、敢えて歪んでいる絵を描くのは違うような気がする。 何より、知識として頭に入れておいたら役に立つだろうと、そう判断したうえである。
だから今後も満足いくまで下手なデッサンを描き続けるだろう。
ところで絵の界隈って美術やアート系から萌え絵のイラストまで、「上手くなきゃダメ」みたいな風潮があるなぁと思う。 そりゃ自分の思い通りの絵を描けた方がいいに決まってるけどさ。何か「上手い奴が正義」みたいな風潮が気に食わない。 プロとか目指してるならまだしも、本人が満足してるならそれでいいじゃんか?と思う。 「上手くなりたい」とみんな口にするが、同じ「上手くなりたい」でも目指すところなんてそれぞれ違う。 だから私は、求められた時以外に他人にアドバイスはしない事にしている。
似たような気持ちをスプラトゥーンで味わったことを思い出した。
同じ「上手くなりたい」でもウデマエXになりたいのか、ランキングに載るレベルになりたいのか、チームの足を引っ張りたくないだけなのか、いっぱいキルを取りたいのか、人によって全然違った。ちなみに私は上手くなるためにアドバイス聞きすぎて、全然楽しめなくなってほぼ起動すらしなくなっちゃった。 ただ周りの足を引っ張りたくないって意味合いで「上手くなりたい」と口にした人に対して、その気持ちを考えようともせず、ウデマエXになる為にガチ勢がみんなやってるガチな練習法や意識を上から目線でアドバイスして、喧嘩になってる人もいたなぁ。
アドバイスは善意によるものだし、とてもありがたいものではあるが、それはその人に求められたものですか?場合によってはただのマウンティングになってしまっていませんか?ありがた迷惑になってしまっていませんか?という注意喚起。
話を戻すけど、デッサン始めて良かったのは、ものの見え方が少し変わったような気がする。散歩しながら道路や建物がなぜ立体的に見えるのか観察しながら歩いていた。 「パース…平行…奥行き…」とかよく分からない事をブツブツ言いながら歩いていたので完全に不審人物だったと思う。
デッサン、あんま好きじゃないけど楽しい。

