凡シュール

肩の力を抜いて生きていこう

凡シュールのエッセイ

2020年2月12日に書いたnoteのリバイバル。
現在移行作業中のため一時的に読みづらくなっていますが後日修正予定です。ご了承下さい。

当時は30歳になったばかりだったっけ。 いまや35歳になり立派なアラフォーである。

こうして5年前の記事を読み返すと、ずいぶん青いなぁと思う。 あれから5年。私は何か変わっただろうか。 変わったような変わってないような。

少なくとも社会的に何か変わった実感はない。 何かが大きく評価されたわけでもない。

でもこうして自分のサイトを再び作っているし、なんか色々やってる。 毎日おいしく飯食ってる。 じゃあそれでいいんじゃないか、とも思う。

少なくとも5年前の焦りは無駄にはなっていない。 何がしかの糧になっているはずだ。 それが具体的に何かと言われたら答えるのは難しいけれど。 5年前の自分が今の自分を形作っていると考えると、全ては地続きなんだなと思う。

つい先日三十歳になった。三十路ってやつである。もう若者なんて言えない年齢になりつつある。

世間的には専業主婦という立場で、子供もいないので気楽に生きている。それなりの自由度も与えられている。他人から羨ましがられる事もある。

別にマウンティングしたいわけではない。

私は現状に何一つ満足していないのだ。

一体何が不満なのか?そう思う人も多いだろう。私自身そう思う時がある。一体この生活の何が駄目なのかと。贅沢な悩みであると。

前からよく考えていた。

「私はこのまま何も成し遂げずにただ死んでいくのだろうか」

別に名誉が欲しいとは思わない。ただ、自分の生きた証を何か遺したい。

このまま死んだら何も残らない。だから私は死を恐れていた。交通事故に遭ったりして突然死ぬ可能性が怖かった。毎日ビクビクと脅えて生きていた。

この状況が嫌で、二十代後半から何か技術を習得しようとがむしゃらに学んだ。

私の事を最近知った人は”手先が器用な人”という印象を持っているかもしれないが、数年前まではものづくりなんてほとんど出来なかった。編み物も2年前くらいに母親に教えてもらいながら習得したものだ。

とにかくがむしゃらだった。何もしないという行為が怖くて出来なかった。だから息継ぎもせず走り続けてきた。

二十代前半は仕事してない時はゲーム漬けのような生活だったが、ここ数年はゲームもほとんどやらなくなってしまった。というより、ゲームに割ける時間が取れなかった。「忙しい」が口癖だった。私の中に暇な時間なんてものは存在しなかった。しょっちゅう「暇」と言っている人に「その時間を分けてくれよ」と何度思ったことか。

ただただ怖かったんだ。

当時の私は力が入りすぎていたように思う。

だが、全力で何かに取り組んでいると見えてくる事もある。

「何も遺せなくても別にいいじゃないか」

もし仮に明日突然死んだとしても。この人生で何も遺せなかったとしても。私は今日までやれる事を全力でやってきた。それなら悔いはないと。

何かに全力で取り組む。これは苦しいけど楽しい。今自分が生きているなと実感出来る幸せ。それがたとえ誰にも評価されずとも。お金にならない事でも。成し遂げられなくても。

その事に全力で取り組んだ事実だけはある。誰にも認知されなくても。自分が胸を張って言える。ただそれでいいじゃないか。

冒頭に書いた現状に満足していない問題。出来れば早急に解決したい。その為にやっぱり私はがむしゃらに頑張っているけれど。昔よりは焦っていない気がする。吹っ切れたような。

一歩一歩出来る事をやっていく。ただそれだけだ。

最近は多少は何かを遺せてるのかなと自信もついた。この駄文だってその一つなのかもしれない。

やりたい事を無理しない程度に全力でやって、気付いたら人生終わってた。そんなもんでいいんじゃないかな。

肩の力を抜いて生きていこう。

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