凡シュール

劣化AIのひらめきレシピ

凡シュールのエッセイ

いや疲れた…。
最近の口癖だ。

本当に疲れる事をやってるんだから仕方ない。
WordPressのブロックテーマの勉強をするつもりが、プログラミング的思考を料理に応用出来るのではと思い立ち、気付いたらレシピ本に向き合っていた。

xが食材、yが調理法、zが味付けだとする。
x + y + z = 料理
xに鶏肉、yに焼く、zに塩こしょうを代入する。
こうすると出来上がる料理はチキンソテーだ。

レシピ本にはチキンソテーの付け合わせとしてクレソンやコーンが載っていたが、これは些細なオマケ…トッピングに過ぎないと考える。
ただの修飾要素だ。
ここをたくあんにしたりブロッコリーにしても問題あるまい。

ではzをポン酢にしたらどうなる?
少し和風寄りになるだろう。
オマケとして大根おろしを乗せると更に良さそうだ。しょうがを足してもいいかもしれない。

さらにxを出来合いのハンバーグにしたら?
和風ハンバーグが出来上がる。
料理をxとyとzの変数に変えるだけで無限にレシピが出来上がる事に気付いたわけだ。

x{ 鶏肉, 豚バラ, 鮭, 豆腐 } #具材
y{ 焼く, 蒸し焼きにする, ゆでる } #調理法
z{ 塩こしょう, ポン酢, トマトソース } #味付け

この組み合わせだけでも色々なバリエーションが作れるはずだ。
調理法の詳細についてはレシピ本をベースにすれば大事故は起こるまい。
レシピ本を1冊擦り倒すだけで無限の調理法が生まれる。
全く関連性の無いレシピを一つ一つ覚えるよりは圧倒的に効率が良いはずだ。

料理上手な人や頭のいい人は無意識のうちに実践している事だと思うが、ここまで体系的に考えてる人間はそうそういないはずだ。
料理苦手な人と上級者の違いもおそらくこれ。

ちなみにこの手法を用いると「お手本から逸脱しないように正解をなぞるだけ」の料理が、一気に「ワクワクする実験や創作」へと化ける。
料理本の奴隷になる必要もなく、料理本を捨てる必要も無いわけだ。

そんな事を1日中考えながら、1冊の料理本のレシピを変数に分解しまくっていたのである。
こういうところは本当に理系っぽいなと自分で思うが、あいにく学生時代は数学嫌いの文系だった。
数学的思考が好きだと気付いたのは時すでに遅し、大人になってからだ。
だから授業や学校の事は結構恨んでいる。

こうなるといよいよ文系理系なる分類も些細なものでしかなく、「文系ガー理系ガー」とずっとこだわってる人が滑稽に思えてくるものだ。

ちなみにこのレシピ分解だが、やっている事は生成AIの劣化版みたいなものである。
AIも既存パターンを学習して新たなパターンを生み出し続けている。
しかも人間には全く追いつけない速度でそれをやってのける。

が、生成AIが決して持ち得ないものがある。
文脈だ。
生成AIは猛スピードであらゆるものを生成するが、成果物に文脈は無い。
「どういう意図で」「これが好きだから材料にした」みたいなのが一切無い。
プロンプトでユーザー側がある程度指定する事は出来るが、限度がある。
結局、ただ一般的に良いとされるものをランダムに掛け合わせているに過ぎないのだ。

おそらくここに人間とAIの差を見出すヒントが隠れているのだろう。
AIの成果物がどこか無機質かつ違和感を覚えるのも同じ理由かもしれない。
AIの成果物が「つまらない」理由も同じ。綺麗でありクオリティも高いがそれ以上でもそれ以下でもない。感性は動かされない。
せいぜい「ふーん、結構いいじゃん」程度だ。

生成AIの作った絵や生成物は、一応鑑賞者の感性を呼び覚ますトリガーとしては機能する。
AIが故郷の絵を描いたら鑑賞者が故郷の事を思い浮かべ、感動する事はありうる。
が、生成物そのものが強烈な感性を発する事は無い。

そんな事を考えつつ。
本当に疲れた…。
明日こそブロックテーマの勉強をやろう。

ここまで来るとやはり一気に土台を整えたくなるものだ。
年内にスローライフを過ごすのは諦めて、ちゃちゃっとラストスパートをかけようかなと思う。
「疲れた…」を繰り返す日はもう少し続きそうだ。

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