現代人はとにかくやる事が多い。
タスク、コンテンツがあらゆる場所にあるからだ。
風呂に入る時はAudibleで本を聴いたり、防水端末で動画を見たり。
歩いている時は通話したり。
電車では音楽を聴いたり。
少し時間が出来たらスマホを開き、SNSを凝視する。
そこに余白は存在しない。
前に誰かが「風呂に入ると発狂しそうになる」と言っていたのを聞いた。
おそらくやる事が無ければ自分の思考に囚われるしかないからだろう。
先に挙げた風呂での娯楽を持ち込まなければ、強制的に何もしないをする時間になる。
そうするとどうなる?
ただぼーっとするしかなくなる。
しかし生きていると悩みはつきものであり、大抵やる事が無いとその悩みがひょっこり顔を出してくるものだ。
強制的に考えさせられる。不安に侵される。
夜なかなか眠れないという人が多いのもそれではないだろうか。
眠る直前から睡眠までは、全てのコンテンツが意味をなさなくなる。
そんな時にちょっとした不安が顔を出し、脳を支配する。
結果その思考に囚われ、眠れなくなる。
「このまま眠ってしまっていいのか?」と脳が、身体が不安になるのだろう。
だからこそ寝落ち通話やV睡…VR睡眠なるものが流行っているのだろう。
思考が落ちる寸前まで誰かと話したり、現実ではない世界に浸っていられるのだから。
自分自身に囚われる時間を極力減らそうとする工夫とも言える。
私も寝る前は極力小説を読む。
たまに小説が面白過ぎて眠るどころではなくなるが。
最近は60年くらい前のアメリカにタイムスリップしている。
いい小説だ。
この時代の、戦争の痛みがまだ残りつつもどこか牧歌的なアメリカの田舎の雰囲気が結構好きなのかもしれない。
謎の懐かしさがある。
アメリカに行った事すらないのに。
私自身の事を語るとしよう。
私も現代人らしく、それなりにタイパは重視する方かもしれない。
少なくともかつてはそうだった。
電車ではkindleで漫画を読んでいる。
これは今でもやっている。
が、初めて乗る電車や景色が良かったりすると、本も読まずにぼーっと車窓を眺めていた。
これは昔から。
昔何度か青春18きっぷを使って長時間電車に乗っていたものだが、乗り換えだけしっかりやって、あとはぼーっと車窓を眺めていたら目的地に着いた。
乗車時間8時間は私にとってはあっという間だった。
昔は歩く時はヘッドホンを欠かさない人間だった。
いつ何時も音楽と共に。
外出の時は欠かせなかった。
だがいつからか散歩時にヘッドホンをしなくなった。
ただ、街の音に耳を傾ける。
何気ない鳥の声を聞く。
音にならない音も聞く。目で聞く。
感性のアンテナを閉ざしヘッドホンの中の音楽に篭っていたのが、外に、街にアンテナを向けるようになったのかもしれない。
まあヘッドホンをしていた当時も今も、散歩しながら私はひたすら内省をしているわけだが…。
内省のお供があるか無いか。
些細な違いなのかもしれない。
風呂での過ごし方。
これも最近まで色々模索していたが、結局最近はぼーっと考え事をして過ごしている。
つまり何もしていない。
防水スピーカーでAudibleなど色々試してみたのだが、全てが煩わしくなってしまったのだ。
だから何もせず、ぼけーっとしている。
最近考えてる事は「ブログどう更新していくかなぁ」「ぬいぐるみの写真も発信したいなぁ」「料理のローテの回し方」「溜まった毛糸はいつ消化しよう?」「ポケモン次は何育てるかなぁ」「明日のエッセイ何書こう」「日課はこれ以上増やしたら死ぬのでは?」「万博行きてぇなぁ」
こんな些細な事を考えている。
些細な事?私にとっては重大な事である。
とにかく最近の私はひたすら自分と向き合い続けているとも言える。
自分との対話。
なんだか禅の考え方に近いような気はするな。よく知らんけど。
一方で、現代人はそういう時間を無理矢理遠ざけているように感じる。
とにかく詰め込め。余白を無くせ。
考える時間を無くせ。考えず手を動かせ。止まるな。
そして、逃れられない睡眠直前の状態などに恐怖する。
何もしない時間を恐れる。
なんかスピリチュアルじみた文章になったが、私の思想は世に蔓延るスピリチュアルとはまた別の毛色な感じもある。
世の中のスピリチュアルって、理解される気0じゃん。
感性全開で理性を吹っ飛ばしてる。
思想の現代アートのようなものだ。
それでいて、「◯◯に耳を傾ければ必ず見えてきます」みたいな。
いや、わからんやろ。
「考えるな、感じろ」を地でいってる感がある。
いや、考えろよ。
私と彼らの決定的な違いは、感性と理性を繋げようとしてる部分だろうな。
よく分かんねー事を分かりやすい言葉で表現しようとしているのが私だ。
感性と理性を繋げるのは…それは大変な事だが、大変だからと感性に突っ走ったら…それこそ思考放棄だろう。