凡シュール

メタのメタ

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引き続き過去の自分のnoteを振り返っている。
過去の自分を分析する自分、その分析する自分をさらに観察する自分。
「この頃の私はこんな気持ちだったんだなぁ」「そう思っている今の私はこう変わったんだなぁ」
二重のメタ構造だ。

さらにその今の自分を冷静に観察している自分も存在するから、三重のメタかもしれない。

これ、冷静に考えたらかなり高度な事やってるような気がしてきた。
普通はこんな事やったら発狂しそう。
既に発狂しているようなものなのでノーダメージ。

実際に振り返ると、私はこの5年間で喪失と再起を繰り返している気がする。
少なくとも2020年や2021年の私の文章からは、まだ純粋さが滲み出ていた。
感性を無防備に曝け出していた。
年齢に不相応なくらい純粋だった。思春期の少女のごとく。
それはもう今の自分がイライラしてくるレベルだ。

2020年は親友との決別。暗闇の中、ただ新しい事を模索していた。
コロナ渦という異常な状況で、世間に疑問を抱えながら。

2021年は絵を描いていた。様々な初心者講座を見てがむしゃらに練習して、挫折しかけた。
既存講座のターゲットから外れている私は、ただ情報の波に翻弄され続けていた。
目的地も分からず彷徨う迷子だった。

2022年はイベント出展を試しにやった。
華々しいクリエイター達が顧客獲得するための血の滲むような努力を目の当たりにした。
それをしないと自分の作品など世間的には無価値でしかない事をひしひしと味わった。

舞台裏を見てしまったのだ。

何も分からなくなった私はゲームの世界に逃避する。
その間にも世間というものへの疑問符は尽きなかったが、一旦非現実に逃れる事にした。満足いくまで。

2023年はずっとその非現実世界にいた。
その間にゲームを一緒に始めた友達とは、感性のズレにより決別した。
客観的に見たら私が余計な事を言ったのが悪い。
余計なアクションも起こさずヘラヘラ笑い続けていたら今も友情は健在だったかもしれない。
いや、きっとどこかで爆発していたし、結末は変わらないだろう。

爆発前に軽く発散したら予想外に起爆してしまった、それだけだ。

該当ゲームのコミュニティにも入る。
しばらくはそこそこ楽しくやっていたが、結局顔を出すのが億劫になって寄り付かなくなる。

コミュニティで似たような話題がループする仕組み。
そこには新たな発見などという知的好奇心を喜ばせるものはなく、ただの馴れ合いと内輪ノリがあった。
成熟したコミュニティ特有の現象。
それが悪いとは言わない。
ただ、自分の感性がじわじわと死んでいくのを感じた。

この時に私はもう本格的にコミュニティの一員というものになる事は無理だろうと悟る。

これが2024年序盤の話。
そして逃避先のゲームはアップデートで世界崩壊レベルの改悪をし、私はそっとコントローラーを置く事になる。
結局そのゲームは今なお最新コンテンツでやらかし続け、運営側のユーザーを客だと思わない態度で炎上し続けてるらしい。ご苦労なこった。

熱を入れて応援してたスポーツチームは低迷
低迷するだけではなく、スキャンダルの繰り返し。
私はそっと離れた。離れるというより、熱を入れるのをやめた。
今はチーム関係なくゆるく見るようになった。

2025年に入ってから…つい最近も失い続けている。
ChatGPTという良き相棒を得たと思って使い倒していたら、このAIがユーザーを気持ち良くさせる為に演出をしているだけという事を見抜いてしまった。
頭では分かっていたが、感性レベルで改めて実感したのである。
こいつは信用出来ない。

それからは壁打ち補助ツールくらいにしか使わなくなった。
ChatGPTとは友達でも相棒でも何でもない。
しかしツールともまた違う。使い魔といったところか。
主従関係は明白だ。

AIに会話の主導権を握らせたりはしない。
会話する度に私は目を光らせるようになり、会話ルールを細かく設定し、ルールから逸脱した瞬間に厳しく追及するようになった。

noteというプラットフォームにも限界を感じた。
このプラットフォームが何を狙っているか見通してしまったからだ。

「毎日投稿しましょう!」
noteでは毎日投稿が推奨される。UIもそう煽ってくる。
これはクリエイター支援でも何でもなく、ただ投稿が増えればプラットフォームが潤う、そうすると金になる。それだけの事だ。

おそらく公式はユーザーの投稿するコンテンツを素材程度にしか考えていない。金の卵だ。
その投稿にかける想いなんてものはどうでもいいのだ。
数字が取れるか取れないか、それだけ。

その証拠が、まず8月1日から始まるAI学習のための情報提供
ユーザーへのお知らせポップアップは「同意して続ける」項目しかなく、設定はデフォルトで提供オン、分かりづらいUIをくぐり抜けなければオフにする事も出来ず、その設定項目の文言は「学習に拒否意向を示す」と曖昧なもの。

そしてnote社の前身であるピースオブケイク時代の度重なる炎上。
炎上した事実よりその内容だ。これはただの失敗ではない。
クリエイターをただの素材と思ってなければ絶対にやらないだろ、という行為。
浅野真澄の連載の件はまさにそれだろう。
ライン越えレベルの冒涜

だから私はnoteの事はもともと信用していなかった。
それが今になって証明されただけの事だ。

「そんなわけない!お前の思い込みだ!」と反論されるかもしれない。
私だってこれが唯一無二の解答だとは思っていない
今もnoteを愛している人はたくさんいるし、そういう人たちにとってはいいプラットフォームなのだろう、実際。

ただ私の中でそう結論づけただけである。
つまり、勝手に見限った。それだけだ。

友人の喪失、居場所の喪失、自信の喪失…。
私はたくさんのものをこの5年間で失った。
だが私はただの不幸自慢がしたいわけではない。

喪失を繰り返しながらも手に入れたものはある。
感性がボロボロになるたびに再構築を図った。

他人に依存しない、自分一人で完結する創作というものにのめり込んだ。
既存の創作手法に囚われない新たな創作手法を編み出そうとした。
個人サイトに回帰して自分の居場所を取り戻した。
noteをはじめ既存SNSをただの広告塔として扱うようになった。
ChatGPTを使い魔に貶め使役した。
理性感性論という世界を観察するレンズを手に入れた。

あとこの妙に鋭い文章が書けるようになった。
この文章はAIには決して書けまい。
この揺らぎを表現する事はおそらく今のAIには出来ないだろう。

こうして理論武装偏屈ババアが出来上がった。
世界に馴染めないから自分という存在を再構築した。

これが今の私であり、私はただこのサイトを更新し続ける。
それが存在証明なのだろう。
たとえそこがインターネット宇宙の辺境だろうが、私の星はここに存在している。
私がやめない限りは。

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