感性を開く行為について思考する元日の日常

エッセイ サムネイル アイキャッチ

新年早々、サイコロでやる事を決めるサイコロライフを復活させた。
1日と2日は散歩の日。
というわけで昨日は散歩をした。

元日で店などはほぼ開いてないから近所をぶらぶらしただけ。
家族で初詣に出かける人が多いようで、通りはそこそこ賑わっていた。
実際に近所の神社は毎年恒例の行列が出来ていた。
人気の割に境内が小さいので、どうしても並ぶ事になるようだ。

あいにく正月に初詣するような文化に染まっていないので、その列の脇を通り過ぎた。
神頼みをする気はないし、新年だからと気を引き締める行為はわざわざ参拝しなくても出来る。
結局は自分の心持ち次第なんだし、いつでもどこでも自分の中で出来る。

だからといって初詣する人をどうこう言うつもりはない。
それだけ私は強い人間になったという事なのだろう。

神社の脇を通り過ぎて、元日から営業しているスーパーに足を運ぶことにした。
便利な世の中だ。

1万歩くらい歩きたかったので、ぐるっと大回りしていく。
途中、某所でベンチを見つけたから座って休む。
景色は何の変哲もない森と原っぱ。
情報量0だ。

しばらくぼーっとする。
ふと思った。
情報量0だからこそ見えてくるものがあるな、と。
情報が無いからこそ、感覚が研ぎ澄まされる。

普段気にしないような場所に目が向き、空気の揺れを感じ取ったり、微細な感性が養われるなと思ったのだ。
なるほど、チャクラを開くとはこういう事なのかもしれないなと。
別にスピリチュアルに傾倒しているわけではないので安心してほしい。


現代人の目の前には常に情報の波がある。
時に溺れそうなほどだ。
情報というのは便利だし、楽しさなどももたらす。毎日飽きない。
しかし波が引く瞬間、ふっと空しくなる時があるのではないだろうか。

みんなそれに怯えている。
だから波が引かないように常に情報を取り入れる。情報の大食い。
しかしそれは逆に、何もない時とのギャップが大きくなる気がする。
ふとした瞬間の空しさは何倍にも膨れ上がる。

情報を意図的に削ぎ落として感性を磨く訓練というのは、昔からそこそこ一般的だった。
坐禅や写経はもちろん、祈祷というのも心を無にしてひたすら祈ってるだけなんだからそれに近いだろう。

そもそも昔の人間というのは、ちょっと移動するのにも何日もかかっていたわけだ。
その間に目にする広告なぞない。
ただただ何の変哲もない自然が目に入るだけだろう。
そして季節の微細な変化などを感じ取り、歌に詠んでいた…といったところか。

かつての農民だってそうだ。
トラクターなどの便利アイテムもなく、ただ鍬を振る作業の中に見えてくるものもあったのだろう。
別に私は懐古主義でも何でもないが。


感性と向き合う時間を設けるのは、とても大事な気がする。
技術が進歩した今でも、人間は感情というものを持ち続けているから。
感性とは人生を豊かにする一方で、とても厄介だから。
一時の感情に振り回されないための訓練とも言えるのかもしれないな。

現代でもヨガやピラティスが流行ってたりするし、写経にハマってる人だっている。
最近は「デトックス」なんて言葉も定着してきた。
別にやる事は何でも構わないのだろう。
PCの虚無作業で悟りを開く事だってきっとありうる。
まあ意図的に感性を磨く時間を設ける必要は無くとも、少しでも意識するのが大事な気がするな。

子供が妙に鋭い理由は、純粋な感性そのままの存在だからだ。
理性のフィルターに染まっていない、ルールの外の視点。
だからこそ、歳をとりながらも無邪気さを兼ね備えている人間はどこか魅力的に見えるのだろう。
理性と感性の共存。

何だかふわっとした文章になってしまった気がするが、感性を言語化するという行為はそれだけ難しい事だ。


帰宅してからは、買ってきた食材を切った。
大量の玉ねぎを切り、冷凍保存した。
玉ねぎを切りながら、涙も鼻水も止まらない。
それでも大量に切ってジップロックに詰めた。
謎の達成感。

しいたけとベーコンも切って冷凍保存。
料理でちょい足ししたい時とかに役に立つだろう。

夕飯は味噌鍋だった。
正月も何も関係なく、とことん日常をやっている。
おせちなど人生で一度くらいしか食べた事ないし、実家でも毎年雑煮を食べるくらいだった。
単に正月にそこまで馴染みない人生だった、と言える。

その後は風呂にのんびり浸かる。
先ほど考えた感性を磨く事についての思考に沈みそうになったが、眉間に皺が寄りまくってきたのでほどほどにした。

久々に動画を垂れ流しながらちょっとした作業をし、軽く読書をして23時過ぎには眠りについた。
日常だな。やはりこのくらいの日常がちょうどいい。
12月は大変だったからな。