少しずつ日常を取り戻しつつある。
思えば8月後半から『ONE PIECE』を最新巻まで読み耽り、万博の予習をし、大阪に行き、万博の記事を書いていた。
随分と日常らしい日常とはご無沙汰していたような気がする。
おかげで長年ぼんやり思っていた「そろそろワンピ追いつきたいなぁ」も達成され、万博も予習しまくってたおかげで結構いい感じに巡る事が出来た。
逆にきっちり予習してなかったら、万博はもっと微妙な感じになっていたに違いない。
そんなこんなでいまや9月も後半突入である。
昨日は久々に料理出来た。
といっても鮭を焼いただけなのだが。
そんな簡単な事でも、自分の手で料理を作るというだけで満足感が全然違う。
どうやったら無理なく料理する習慣を継続出来るか?については少しずつ答えを掴みかけている気がする。
すっかり滞っていた、Redditや海外ソースのニュースを見て世界を知る行為。
万博をきっかけにまたぼちぼち見るようにしている。
日本で得られる情報なんてごく僅かだなぁと改めて思う。
海外じゃ大騒ぎになっているニュースが、日本だとほぼほぼ関心すら持たれていないなんて事もままある。
それにしても思う。
英語がスラスラ読めない。悔しい。
翻訳アプリにかけて英語と日本語を見比べながらなら読めるが、ぱっと英文を見ただけでは意味がつかめない事が多々ある。
これが本当に悔しい。
これまでの人生でなぜ真面目に英語を学んでこなかったんだろうとすら思う。
いや、何度も学ぼうとはしていた。
何度も挫折した。
中学生の頃の私も英語がスラスラ出来るようになりたかった。
教科書の英文に、カタカナ英語じゃない読み方を研究して書いたりしていた。
今からすればめちゃくちゃ効率悪い方法なのだが、カタカナ英語とは違う発音を研究したかったんだと思う。
それを見た塾の先生は「それはやめたほうがいいと思う」と私に言った。
確かに効率は悪い。こんな事をしてもテストでいい点は取れないだろう。
でも私はその一言で英語そのもののやる気を失った。
なぜか妙にそれを覚えている。
あの時大人しく従わず、ひそかに続けていれば自力で別の学習法に辿り着いていたかもしれない。
わからない。
でもあの時がターニングポイントの一つだったように思う。
私が教育というものに反発心を抱いているのは、こうした細かな出来事の積み重ねによるものなのかもしれないなと思った。
500ポイントを目指すにあたって、
50ポイントずつ稼いで10日で500ポイントを目指すやり方。
これが一般的にも効率的とされている。
効率的という一点で評価されているため、そこに意欲や好奇心などの介在する余地はない。
ただやるだけ。楽しくないのに。
私は5ポイントずつ稼いで100日で500ポイントを目指していたのかもしれない。
やれと言われた、何もかもが決まりきった方法ではなく、効率が悪かろうが自分が納得出来る方法を模索したかった。
そして、その模索は楽しかった。
しかし、このやり方は非効率と切り捨てられる。
切り捨てられた結果、私は5ポイントずつ稼ぐことすら出来ず、50ポイントずつ稼ぐ方法のモチベーションも得られず、500ポイントに到達出来なかった。
これが今の教育現場なんだろうなと思う。
芽を摘まれた。
ちなみに似たような経験がもう1つある。
建設会社の事務をやってた頃、仕事で暇なのでCADの勉強をしていた時だ。
自分で教本見ながら色々図面を作っていたら、会社のおじさんに「こんなのやらなくてもこれをこうすれば出来るよ」と言われた。
結局これで私のCAD勉強意欲は薄れ、辞めてしまった。
とにかく自分が楽しんでやってる方法が「効率悪い」と否定される事が嫌いらしい。
自己否定されたようにすら感じる。
せっかく独学で楽しく勉強してるのに、アドバイスを求めてもいないのに「効率悪い」と切り捨てられ、大して魅力が感じられない方法を提示される。
その方法が効率が良くても、こっちが途中で挫折してしまったら効率もクソもないと思う。
まあこんな指摘1つで辞めるんじゃねえ、もっと自分のやり方に自信を持てと当時の私には言ってやりたいが。
私が今も何かを学ぶ時、独学という方法を選びがちなのはこういう理由からきているのだろう。
他人のアドバイスとやらにやたら過敏になっているのも同じ理由だと思う。
こうして見ると運なさすぎな気もするけど、いつまでも他責してても仕方ない気もする。