凡シュール

福沢諭吉ってちょっと可哀想かも

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2025年5月31日にnoteで書いた記事のリバイバル
結局最近あまり図書館に行けてないので学問のすすめも積んでいる。

曲を作っていた。
いや、正確には前作った曲をパーツ分けして再構成していた。
こういう時Ableton Liveのセッションビューが役に立つ。
楽器感覚で適当に鳴らす。一応曲っぽいものが出来た。
作業用BGM向きの曲だが。

それから図書館に行った。
何を読もうか悩んだ挙句、福沢諭吉の「学問のすすめ」を読んだ。
序盤を読んだだけだが、福沢諭吉はとにかく正しい人だ。あまりにも正しい。
なぜなら理性一辺倒で感性の要素が全く出てこないからだ。

賭け事や学問にならない事にうつつを抜かす人々を「馬鹿者」とバッサリ斬り捨てている。
理解しようという意思がさらさらない。
とにかく学問が立派。
みんな学問をやればいい世の中になる、欧米とも渡り合える。
まさに現代の常識の礎となっている。

さて現代。
確かに現代日本で文字の読み書きが出来ない人というのは、聞いた事が無い。
識字率ほぼ100%
義務教育も徹底され、常識もアップデートされ、福沢諭吉の言っていた世界は実現されたとも言える。

本当にそうだろうか?

学問は受験戦争というゲームの素材にされてしまっただけではないだろうか。
実際、受験勉強は頑張ったがその内容は大して覚えていないという人が大半ではないだろうか。

福沢諭吉が設立した慶應義塾大学がいまや「セレブ御用達」「入るには一定の学力が求められる」と、経済格差や学歴格差の一因になっているのも事実。
これは当初の「学問は万人に開かれているべきだ」という主張からは、かけ離れているのではないだろうか。

といっても、私は慶應義塾の歴史に詳しいわけではない。
歴史を学んでみるのもいいかもしれない。

次に、福沢諭吉と言えば一万円札である。
一万円札の事を「諭吉」と呼んだりする。
つまり、自分の肖像を紙幣という人々の欲望の象徴に使われてしまったわけだ。
かつて福沢諭吉が「馬鹿者」と斬り捨てた人達が追い求める存在、一万円札。

なんとも皮肉ではないだろうか?

わずか1時間足らずの読書でそこまで考えてしまった。
福沢諭吉は確かに当時の常識レベルからしたら立派な人物だったが、仮にあのままで現代にいたら「頭が堅すぎるおじさん」という評価が下されていただろう。
それだけ世間の常識がアップデートされたとも言えるかもしれない。

スーパーに寄ってから帰宅して、適当に料理した。
最近レシピを見ないで料理し続けている。
今日は豚肉ともやし、ピーマン、玉ねぎの野菜炒めを作った。

味付けは戸村の焼肉タレである。
九州のタレだがとてもうまいのでオススメ。
九州じゃなくてもそこそこ流通しているらしく、この前近所のマルエツで見かけて衝撃を受けた。

具や調理法が似たような感じでも、味付けにバリエーションがあれば案外飽きないものだ。
味付けのバリエーションはレトルトカレーや既製品ソース、パスタソースなどでも補える。
既存レシピから味付けだけインプットする事も出来る。

レシピにガチガチに縛られる必要のない、感性の要素が多々入った料理だ。
縛られる必要が無いので、個人的にかなり合っている。
そんな感じで飯を作り、野球を見て、風呂に入り、読書して寝た。

風呂ではAudibleでカフカの「変身」を聴いていたが、あまりにも演出過剰だったので、聴き苦しくなって途中で辞めてしまった。
淡々と朗読してくれればいいのに、なぜわざわざ余白を潰す真似をするのだろう。

読書の良い点…自分の想像に委ねるという部分を思いっきり排除しにかかっている。
とはいえ、この傾向を歓迎している人は多いのかもしれない。
読み上げている声優や俳優のファンが読書にハマるキッカケを与えているかもしれない。
と考えると、単純にnot for meなのだろう。

まあAudibleは風呂専用だし、適度に合ったナレーションの作品を探すのが良いのだろう。
前に聴いた、宮崎あおいが読み上げる「スプートニクの恋人」はとても良かった。

風呂、普通に読書するには不向きだ。
紙の本は湿気でふやけるし、電子書籍も画面が曇ってろくに読めない。
結果、Audibleが最適だなとなったわけである。

とりあえずそんな一日だった。
何気ない日常がやはり一番いいものである。

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