凡シュール

そこには無数のドラマがある

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2025年2月18日にnoteで公開した記事のリバイバル
この文章は、たしか電車に乗ってる時ぼんやり思った事をそのまま言語化したものだったように思う。

住宅街を歩く時。
何の変哲もない家々だが、この明かりの中では様々なホームドラマが繰り広げられていることだろう。
どこかの家から夕飯のにおいが漂ってきたら「やった!今日はカレーだ!」とか「もうかぼちゃの煮付けは飽きたよ〜」なんて会話を想像したりする。

オフィス街でもそうだ。
夜に煌々と光るオフィスビルを「労働力の結晶」なんて皮肉めいた呼び方をするが、この光の中でも様々な人が色々な悩みを抱えながら働いているわけである。

ここにも無数のドラマが存在する。
少し想像してみると楽しい。

図書館や本屋。
本が集まる場所というのはとてもワクワクするものだ。
叡智の結晶
本とは、著者の人生だ。
魂全力で書かれたものもあるし、人生のノウハウを切り売りされたものだってある。

本に限らない。電子の海インターネットだってそうだ。
noteだってそう。
トップ画面には記事のタイトルがたくさん並ぶが、開いてみたら無数の人生が、ドラマがある。

そのドラマは時に感情を揺さぶるかもしれないし、何の変哲もないホッとするものかもしれない。
どんなに平凡な住宅、オフィスビル、本、note記事でも、そこに同じものは何一つ無い

同じような話題でも、著者のワードチョイス、話の展開のしかたなどで印象はガラっと変わる。
これが個性というものなのだろうか。

その個性の中にも筆者の人生を感じ取る。

私はよく「他人はコンテンツ」という最悪の言葉を使う。
「趣味は人間観察です」のようなものだが、他人のことを観察して勝手にどんな人か想像するのは楽しいものだ。
電車に乗って見ず知らずの人を観察して、「今日はおでかけなんだろうな」とか「仕事人間なんだろうなこの人」とか。

私もどこかの誰かにとってはコンテンツに過ぎない
他人とはそのくらいの距離感で生きるのがちょうどいい。

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