エッセイとは何なのか?
自分のエッセイを読んでみて、改めて「エッセイらしくねえな」と思う。
昨日読んだエッセイは「一生ものだと思ってた鉄のフライパンを買ったけどお手入れが面倒で使わなくなっちゃった。結局テフロンに戻して2年ごとに買い替えてる。結局周囲が良いって言ってても自分に合うかはまた別だよね〜」みたいな、ありがちな内容だった。
あ〜めっちゃ地元。地元の臭いがする。
いや、むしろ消臭されまくってる。
実を言うと私も鉄のフライパン使いである。
私も「一生ものだし鉄のフライパンでも買ってみるか」と、このエッセイストと同じような動機で買った。
そして、3年くらいガシガシ使っている。
手入れが少し面倒なのは事実だ。
でも食べた後にすぐ洗って、火にかけてすぐ乾かす。
正しいお手入れ方法では乾かした後新たに油を塗っておくというのがあるのだが、そこまでは面倒でやっていない。
エッセイスト的にはこの油を塗る工程が特に面倒で使わなくなったらしい。
「いや、錆びなきゃなんでもいいだろ」
とりあえず洗ってちゃんと乾かしてるんだから、錆びる事はないはずだ。
そして相変わらず肉などがおいしく焼ける。
それでいいじゃないか。だから今も変わらず使っている。
実はこれとは別に、ニトリのフライパンもある。
コンロが複数あるので同時に使う時もあるからだ。
鉄のフライパンを使うのが面倒な時、炒め煮などあまり鉄の恩恵が無さそうな時はニトリの方だけを使ったりもする。
鉄のフライパンを完璧にお手入れしようとして結局挫折というのは、形から入りその形を完璧に遂行しようとする、私の地元的価値観だ。
いいものと言われているものをとりあえず買ってみて、合わなかったら手放して新しいものをどんどん買う。なんて贅沢で傲慢なんだろう。
私の親もそういう節があった。
小さい頃、私は漫画家に憧れた。
親は漫画が描ける道具を色々買ってくれた。
が、使い方は親も知らなかったし、そういった本を買ってくれるでもなかった。
一緒に模索してくれるでもなかった。
当時はネットも無かったから自分で調べようがなかった。
結局使ってみようとしてもどう使うのか分からず、それ以来その道具には触らなくなった。
あれらはどこへいったのだろう。
そもそも漫画なんて、鉛筆1本と紙があれば描けるはずだ。
そういう事を教えてくれる人は誰もいなかった。
ただ、色々な物を買い与えられて放置された。
それが私をどんどん飢えさせていったのだと思う。
私はたくさん持っているはずなのに、常に飢えていた。
だからこそ本を読むのが好きな子供だった。
無味無臭の生活に刺激を与えてくれるものだった。
アニメもよく見ていたしゲームもやった。
これらの世界は素晴らしいものだったが、実体験が伴うものではない。
多少紛らわす事は出来ても、やはり心のどこかでは変わらず飢え続けていたのだろう。
兄弟もおらず「家に友達を呼びたい」と言えば「うちは汚いからダメ」とあっさり言われる。
ゴミ屋敷でもないのに、小学生がそんな他人の家の汚さを気にするだろうか?と今なら思う。
エッセイとは何なんだろうか。
確かに私の文章は、巷のエッセイとは違う性質があるように思う。
巷のエッセイが共感を売りにお行儀よくしているのに対して、私のエッセイはそんなものを蹴飛ばすようなガラの悪さがある。
巷のエッセイは売れそう、私のエッセイは売れなさそう。
でも、自分の事を書いているからこれもエッセイなんだと思う。
ただの記録とも違うから、日記ではないと思う。雑記とも違う気がする。
エッセイという言葉の優等生っぽい雰囲気を書き換えてやろうとすら思う。
再定義だ。お前は優等生でも何でもない。
渇き極限に達し
大雨を降らせ 大洪水が起き
大地、唸りを上げて歪む
全ては書き換えられた















