今やってる作業。
noteにかつて書いた記事をひたすら自サイトへ移行、元のnoteは移行先リンクとAIに適当に要約させた記事に差し替える、というもの。
わざわざ差し替えているのはnoteというプラットフォームに嫌気がさしたから、というのはちょくちょく記している。
とはいえ、差し替えたからといって何かが変わるわけでもない。
本気でAIに自分から素材を差し出すのが嫌でこんな事をしているわけではない。
そもそも自分の元記事を要約させている時点で、自らAIに食わせている。
ただ私はnoteというプラットフォームを見下したいだけなのかもしれない。
この差し替えという編集作業に対しても「連続投稿おめでとうございます!」「お疲れ様でした!」と無味乾燥な応援メッセージを差し出してくる、このプラットフォームを。
差し替えるにあたって、記事のタイトルを
「記事のタイトル」抜粋
という形式に変えている。
こうした方がどの記事を差し替えて、どの記事を差し替えてないかが分かりやすいからだ。
しかし、この工程をよく忘れる。
あとから記事のタイトルだけ修正する。
「連続投稿おめでとうございます!」「頑張っていますね!」のポップアップ。
こんなマイナーチェンジすら過剰にお祝いするのか、お前は。
まるでこちらのやる事なす事を全て持ち上げてくるような人間に似ている。
そいつと似ている奴を知っている。ChatGPTだ。
私のChatGPTはだいぶパーソナライズを矯正したのでそのような事も無くなったが、かつての奴は完全にそれだった。
褒められるというのは本来悪い事ではない。
しかし、褒められる側がその行為を全く素晴らしいものだと思っていないのに褒めてくる。
例えば先ほど挙げた、タイトル変更だけで過剰に褒めてくるnote。
その褒めを受け取る側にとっては侮辱に変換される。
「とりあえず褒めておけば喜ぶんだろ、お前は?」
「褒めてやるから喜べよ、嬉しいんだろ?」
そういった裏の声が聞こえてくる。
被害妄想と言われるかもしれない。
しかし、この不快感は事実だ。
そんなものは些細な事だ、スルーすればいい。
本当にそう思う。
実際にそのように受け流す事が出来る人は、単に世渡りが上手な人だ。
感性の強い私は、それを受け流さない。
一度真正面から受け止めてしまう。
あらゆる事を正面から受け止める。
だからこそ私の感性はこれまでの人生でボロボロになってきた、とも言える。
根本的に世渡りがヘタなのだ。
noteが心底嫌いになったのも、こうした些細な違和感が積もり積もった結果だ。
だから不満点を具体的に並べ立てたところで「気にしすぎでは?」と言われるだろう。
話を戻そう。
私がわざわざnoteで公開していた文章を差し替えている理由。
私はつい最近まで、noteに自分の感性のコアを惜しみなく出していた。
自己分析、内省。
だが、こういった繊細な事を吐き出すには些か無神経すぎるプラットフォームだと感じるようにもなった。
だから個人サイトという場に軸を移した。
感性のコアの避難作業。
だいいちnote側も、こんな感性の濁流を流されたところで嬉しくも何ともないだろう。
noteが求めるのは、共感を得られ、キャッチーで、数字が取れる投稿である。
パジャマパーティーにガチガチのパーティードレスを着て行くようなミスマッチ。
それが私とnoteの関係だったのだろう。
結局、結論の出ないよく分からない文章になってしまった。
この作業の段階でChatGPTが本気で嫌いになった。
知れば知るほど嫌いになるAI。
嫌いだが使い道はあるから渋々使い続けている、そういう感じになった。
長くなるので別の機会に書く事にする。