SNSを開くと、繋がりを求めている人たちがたくさんいる。
何年も前から「◯◯と繋がりたい」というハッシュタグがあらゆるジャンルで積極的に使われている。
いつも思う。
繋がってどうするんだ?
まあこういうタグで繋がったところで、交わすのは「おはよー!」などの挨拶と、タグ関連のポストをした際に反応するくらいなのだろう。
その繋がりって必要か?
むなしくならんか?
だが、これを完全に否定してしまうのは違う。
挨拶のやり取りなどで、彼らは「そのクラスターに所属している」という存在証明をしているのではないだろうか。
中には単なる宣伝として用いている人もいるかもしれないが。
挨拶を交わすことで、変わり映えしない日常を噛み締めている。
それ自体は悪い事ではない。
現代のリアルなコミュニティが希薄だからこそ、こういったオンラインのコミュニティに帰属意識を持つ人が多いのかもしれない。
だがこのやり取りのみの関係にむなしさを覚える人も一定数存在するだろう。
私もそちら側の人間であるが。
こういう繋がり方をしたところで、その繋がりの糸は気付いたらぷつりと切れているのが落ちだ。
そして新たな繋がりを求める。
それって繋がりを消費し、新たに見つけ、また消費し…。
消費というか浪費しているようにも見えてしまう。
改めて思う。
むなしくならんか?
じゃあこんな薄っぺらい繋がりではなく、深く関わるべきなのだろうか?
若い頃の私はそういう考えだったかもしれない。
「この人面白いな。どんな人なんだろう、もっと知りたい」
かつての私は知的好奇心に突き動かされ、様々な人と深く関わっていた。
だが人と深く関わるというのは、その人の事をより深く知るという事だ。
人を深く知るというのは、見たくない側面も目にするという事だ。
自分の過去の交友関係を振り返る。
深く関わりすぎてしまったが為に破綻した友情。
深掘りなんてしなければ、今もゆるく続いていたかもしれない関係。
深い関係というのは、常にリスクと紙一重なのかもしれない。
ではもういっそ交友関係なんて無くしてしまえばいいのだろうか。
現に私はかれこれ1年以上、家族以外の交友関係をほぼ遮断している。
個人的な交友関係は0に等しい。
が、本当に遮断したければこんなブログを毎日書く必要は無いだろうし、SNSもアカウント削除すれば済む話だ。
別に私は真の孤独を求めているわけではない。
薄っぺらい繋がりはだるい、深い繋がりはトラウマ、孤独を求めているわけではない。
ワガママか。
そうじゃない、繋がりとかじゃない。
私は気配を求めている。
例えばこのブログを読んでくれた気配。
SNSのタイムライン上で誰かが生きている気配。
積極的に関わる必要はない。
ただなんとなくいいねし合ったり、しなかったり。
フォローしてるけどたまにやり取りする程度。
そういうゆるい気配。
繋がりじゃなくて気配を求める。
微妙な塩梅だ。繊細でもある。
だからこそ伝わりづらいんだよな。