凡シュール

茨の棘で血を流しながら自爆スイッチを押した

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2025年6月4日にnoteで公開した記事のリバイバル
こんな上質な内省記事、noteにはもったいないぜ。

珍しくこんな時間に記事を書く。
本当に今更…そしてもう何度も何度も味わってきた事なのだが、私はコミュニティというものに居場所を得るのは無理なのかもなと改めて悟ってしまった。

理性型からは「感情重視でフワフワした事を言う」と思われ、感性型からは「理屈っぽくて難しい事ばかり考えてる」と思われる人間が私だ。
それをきちんと自覚してしまうのもまた…といったところである。

感性型が社会やコミュニティの空気に馴染めない、浮いてしまうという話はよく聞く。

だが、私は馴染めていないわけではない…と思う。
むしろ感性が爆発して空気を乱している人を見て、冷える場の空気を感じ取って、とにかく複雑な気分になっていた。

どちらの気持ちも分かってしまうからだ。
感性が強いから「この人も純粋な気持ちで悪気は無いんだな」という共感を抱きつつ、理性もあるから「でもこの人のこういうところが場の空気を乱しているな」と冷静に分析している。

そう、あらゆるものを分析し続けているのかもしれない。
それも解像度の高いレンズで。そりゃ疲れる。

空気もよく読む。ゆる〜いコミュニティでは頭の堅い話はしないように心がけていたし、逆に理屈っぽいコミュニティではそのように振る舞っていた。
ある場所ではバカのフリをし、ある場所ではインテリのフリをする。

ひたすら自分を演じ続けていた。
演じると言うと少し語弊があるか。器用に人格を切り替えていた

このスキルは誰とでも無難に話せる反面、誰にも心を開く事は無くなる。
こちらが心を開く事はないので、当然誰からも心を開かれない。

そして私もたまにを見せる。
その隙が出た瞬間、明確に他人とのズレを感じてしまうのだ。
そして思う。
「あぁ、やっぱり今回もダメかぁ」

ゲームの遊び方で言うと、ガチ勢にもエンジョイ勢にもなれない人間だ。
ガチ勢のように完全効率特化する事も無理だしガチガチの戦略にも興味を持てなかったが、エンジョイ勢のように「楽しけりゃ何でもいいっしょ!」という姿勢も無理だった。

この孤独はおそらく誰にも分からないだろう。
分かってたまるか、とも思う。
誰にも理解される事なく、ただ痛々しい中年だと思われるのかもな。

まぁ正直この性質が特殊だとも思わないが。
似たような人はたくさんいるのかもしれない。
とはいえ、コミュニティで居心地が悪いというのは普通に生きていくうえで大きな痛手である。
だから治そうとするのだろう。

みんな必死で自分の感性にやすりをかけ、棘を減らし、集団に馴染むように…、
あぁ、確かにそのやり方は正しいはずだ。治さなきゃならないのだから。

治す…。治すとは?
自分の感性を、性質を、治す?
それは矯正するという事か?
自分を歪める?迎合?

だってそうしなきゃ治せないだろう。
治す、そうだな…治すって?病気なんですかこれは?
自分が自分である事が病気?一体それはどういう事だ?

ここで二つの選択を迫られる。
感性をやすりにかけて楽な道に行くか、感性の棘を持ち続けたまま茨の道に行くか。

私は既に茨の道に足を踏み入れている。
自分の感性にやすりをかけてしまえばどんなに楽だっただろうか!
しかし今更引き返す気も無い。前に進むしかない。
悲劇にして喜劇。何と滑稽な事だろう。

自分の感性を削る事、それ即ち死に等しい。
やはり私は元来クリエイター気質なのだろうなと思った。
結局は表現者としての道しか無いのだ。

だから深夜にこのような気の触れたエッセイを書いている。
こんな無茶苦茶な本心を抱えている人間がどこかに馴染めるわけないだろ。
馴染めているように見えるのは、こちらが本心をぐにゃぐにゃに捻じ曲げて無理しているだけである。

恨み節だけ言っていても仕方ない。
他人との直接の接続はもはや諦めている。作品を通さなければ無理だ。
もはや作品とは、私が私のまま世間と接触するるための手段でしかない。

あぁ、まるで現代アートみたいな文章だな。

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