普段使っていたスーパー。
このスーパーは駅前の繁華街のど真ん中にある。とても便利だ。
しかしこのスーパーに辿り着くには、駅の改札から吐き出される人たちの間をすり抜けていく必要がある。
手刀でひょいひょい人をかきわけるのがとても上手くなった。
こんなスキル、イベントの人混みでしか役に立たない。
それから駅前の繁華街。
常に人が多くて賑わい…
多すぎなんだよな。
ゲーセン前の階段には、行き場の無い中高生達が常にたむろっている。そういう街だ。
ようやくスーパーに辿り着く。
わずか10分ほどなのに情報量があまりにも多い。
スーパーに入り、まずはエスカレーターが待ち構えている。
細い1人乗りのエスカレーターだ。
それでいてトロい。この時間が虚無である。
生鮮食品売り場に辿り着き、食材をカゴに放り込んでいく。
しかし狭い。
人がいるところを避けて通ったりする。
とても、じっくり食材を選んでいられる状態じゃない。
だから事前にレシピ本を見て、買い物メモに書いた食材をかき集めていた。
一時期レシピに頼らずじっくり選ぼうとしてみた事もあったが、狭い店内でゆっくりなんて出来るわけもなく、すぐにやめてしまった。
あとここの野菜は、心なしかしなびて見えた。
それからまたトロいエスカレーターに乗って1Fに降り、適当に乳製品を買ったりしてセルフレジへ。
セルフレジも運が悪かったら混雑する。
大晦日に行った時は、大行列が出来ていた。狭い店内で。
飲み物コーナー前が行列に支配される。
大晦日ほどではないにしろ、時間をミスると少し待つ。
だからスーパーに行く時間は考えないとならない。
作業に夢中になって気付いたら夕方だった時は、絶望しかない。
そんなスーパーでの買い物を済ませ、自宅へ帰る。
またごみごみした繁華街を抜ける。
前に一度、買い物帰りに携帯ショップの客引きの兄さんに話しかけられた事がある。
その日は夏のクソ暑い日だったため、反応する余裕がなく完全無視した。
断る体力すら削りたくなかったのだ。
駅前は正直あまり好きではない。
なんか埃っぽい気がする。
よく駅前で「ワンちゃんネコちゃんの避難所を〜」と寄付を呼びかけている人がいる。
どこの駅にもいるアレだ。
あれは詐欺的なものだとネットで見かけた事があるし、呼びかけてるのもバイトなんだろうな。
特段熱量があるわけでなく、ただ機械的に同じ言葉を繰り返す。誰も見向きもしない。
ごく稀に人の良さそうなおばあちゃんとかが募金しているのを見かけて、少し悲しくなる。
あと、駅前でドブネズミを見かけた事もある。そういう街だ。
再び改札前の人混みを手刀一つですり抜け、家に帰る。
この時点でクタクタだ。
トータル1時間もかかっていないはずなのに、妙に疲れる。
料理する気力など残っておらず、食材を使うのは明日でいいやとなったりもしていた。
これが、ついこの間までのルーティーン。
ふと思った。
隣町のスーパーに行けばいいのでは?
隣町のスーパーは、うちから徒歩25分くらいだろうか。
確かに駅前のスーパーに利便性は劣る。
だからごく稀に、散歩のついでに寄るだけのところと認識していた。
しかしこのスーパーは広い。
広い敷地のワンフロアなので、トロすぎるエスカレーターでイライラする事もない。
昨日、あえてここに買い物に行った。
まずスーパーに至る道。
道幅は狭いが駅前ほど人がごみごみしているわけではないので、比較的落ち着いて歩ける。
住宅は全方位敷き詰められているが、平屋や背の低い住宅が多く、まだ空がよく見えて解放感がある。わずかだが畑もある。
東京の多摩エリアみたいな感じ。
そんな道をぼーっと考え事をしながら歩いた。
手刀で人を掻き分ける必要が無いので、考え事が捗る。
民家の庭に花が咲いていて、それをぼーっと眺めたり。
辿り着いたスーパーは、ほどほどに人が入っていて活気があった。
おいしそうなファーストトマトがあったので買う。袋で5個入り。
他には、ここでいつも買うヨーグルトを買ったり。
刺身コーナーの端で、大根のつまを見つけた。
あの細切りの大根である。
サラダに入れたら良さそうだなと思い、カゴに入れた。
大葉も1枚ついてくる。嬉しい。
肉類も充実していた。さすがイオン系列。
それから惣菜も充実。
がっつり料理する気分ではなかったので、惣菜を多めに買うことにした。
これは贅沢や手抜きではなく、時短のアセットだと思う。
たくさん買ったのでおそらく残るが、残り物は明日の朝か昼にも回せる。
これが自炊のいいところだ。
外食だと、出された物をその場ですぐ食べきらなきゃならない。
今はそっちの方が不自由だなと思う。
会計する。2500円。
これが1食なら高いが、3食ほど賄えるとなると許容範囲だと思う。
品目はすごく多いし、充実した食生活ならこのくらい欲しい。
惣菜が多めだからというのもあるが、これは時短のための必要経費だ。
仮に外食の場合は、1食2人で2000〜4000円くらいかかるだろう。
しかも野菜が極端に足りなかったりする。
必要な栄養が足りず脂質と炭水化物ばかり過剰摂取していると、歳をとってから何かしらの病気になるリスクも上がるだろう。
そうなると将来医療費も嵩む可能性がある。
なるべく栄養に配慮したうえで組んだ2500円なので、かなりいい感じになったと思う。
楽しい。
今回の買い物、メモの類は全く見ずに感覚だけで選んだ。
こんなに楽しい食材の買い出しは初めてだった。
また住宅街の中を歩く。
家まで少し遠いが、もともと歩くのは好きだ。
家に帰る。
台所を見ると、昨日肉を焼いた後のフライパンが放置されていた。
放置されたフライパンは油で白く固まっていた。
思わず手に持っていたラップを床に叩きつけた。
その時の私は無表情で、無言だった。
昨日の私は、移住するメリットと私の切実な願いを夫に届けるため、Notionに移住嘆願書として情報をまとめるのに夢中になっていた。
米だけ事前に炊いていた。
気付いたら20時とかで、空腹に耐えかねた夫が冷蔵庫にある肉を焼いた。
そのフライパンである。
せっかく焼いてくれたからと私も食べたが、脳は移住嘆願書の事でいっぱいで、食後もフライパンを見る余裕など無かった。
その結果がこれである。
夫は夫で普段忙しくて疲れてるのはわかる。わかるが…
何もこれは今回に限った話ではない。
とにかく無関心なのだ。
私が普段何に喜び、何に悲しみ、何に苦しんでいるかなんて、夫にとっては心底どうでもいいのではないだろうか?と常に思い続けていた。
フライパンを火にかけ、固まった油を溶かす。
それからキッチンペーパーで溜まった油を軽く拭き、流しでワシワシと洗った。
そして思う。
「台所、きったねえな」
油でギトギトのコンロ、流しの奥には空き缶、ダイニングテーブルに散らばる飲み終わって洗い、捨てる前の空のペットボトル。
そして無駄な物の多さ。
この世の終わりみたいな光景だった。
まるで放棄された城みたいじゃないか。
私がこの城の主のはずなのに。
コンロを拭き、シンク周りを片付け、ダイニングテーブルの不要物を全てどかした。
いらないものは容赦なく捨てた。ふと思う。
「透明マット、邪魔すぎる」
我が家は木のダイニングテーブルなのだが、買った時から透明のマットを敷いている。
キズ汚れ防止のあれだ。
しかし私は、昔からどうもこいつが好きになれなかった。
せっかくの木のポテンシャルを殺しているような気がしたからだ。
そもそも傷や汚れが染み込んで、初めて味や深みが出るものじゃないのだろうか?
前に夫に「マット外していい?」と聞くと、嫌そうな顔をされた。
だが思う。
どうしてテーブルを拭きもしない人間の言う事に従う必要があるのだろう?
このダイニングキッチンの主は私だ。
テーブルから透明マットを引き剥がし、放り投げる。
ただマット1枚剥がしただけなのに、何だか生まれ変わったように見える。
木がスベスベして気持ちいい。
取り去ったマットの方を眺める。
とてつもなく汚かった。
このマットは、拭いても拭いても綺麗にならない感覚があった。
だからひそかな嫌悪感を抱いていたのだろう。
ダイニングテーブルにまな板を置き、買ってきたトマトを切る。なんだか楽しい。
マットを敷いていた時は、ダイニングテーブルにまな板を置いて食材を切ろうと思いもしなかった。
やはり本能的に透明マットが汚いものだと見抜いていたのだろう。
トマトは思っていたより熟していたので、サラダに使って余った分はトマトソースにしてしまおうと思った。
Geminiに聞いてみる。
にんにくとオリーブオイルと塩で普通においしく出来そうだ。
惣菜を皿に盛り合わせていく。
ただの惣菜の寄せ集めだったはずなのに、きちんと盛り付けるといい感じになった。
デザインだな、と思う。
出来上がった夕食はおいしかった。
出来たトマトソースは冷蔵庫に入れて、明日パスタにかける事にした。
料理ってこんなに楽しかったんだ、と思う。
この日はたまたま、普段テレワークで家にいる夫が出社していた。
普段なら漏れ聞こえる打ち合わせや夫の気配が無かった。
だからこんなに解放感があり、台所の掃除も思い切り出来たのだろう。
私にとって料理は根源的な創作であり、キッチンはアトリエである。
じゃあ今までアトリエのど真ん中で仕事の打ち合わせをされていたようなものか、と思った。
というか仕事場に直接乗り込まれて選挙演説されていたようなものだ。
私にとっては夫の打ち合わせも、選挙演説も1ミリも興味ないという時点で変わらないノイズだ。
打ち合わせは夫の仕事だが、料理は私の仕事だ。
そして打ち合わせは会社でもコワーキングスペースでも出来るが、料理は自宅のキッチンでしか出来ない。
それなのに夫はテレワークで打ち合わせをし、打ち合わせ中キッチンに立つ私は声を発する事すら出来ない。鼻歌ひとつ歌えない。
あまりに不公平ではないだろうか?
私は料理するのが嫌いでも何でもなく、むしろ好きだったのかもしれない。
思えば、米を炊く時は必ず1時間浸水させてから炊いていた。そうすればおいしくなるからだ。
少し面倒な鉄フライパンだって、多少雑に扱ってるとはいえ、使い続けている。
それが出来る人間が料理嫌いなわけないじゃないか。
じゃあなぜ日頃の私は隙あらば料理をサボっていたのか?怠惰だったからか?
いや、多分環境が最悪だったんだと思う。
スーパーへの道のり、荒れ果てた台所、そして木のダイニングテーブルを覆い隠す薄汚れた透明マット。
これに加えて、隙あらばコンビニ弁当やテイクアウトに走る夫。
スーパーの前に立ちはだかる数々の飲食店。
ハードモードすぎる。
私は楽がしたかったのではなく、料理がしたかったのだ。
そんな料理がしたいだけの私にとって、この環境はあまりにもハードだった。
そして、料理は一種の創作だと思っていた。
その根源的な創作がおざなりになった状態で、他の創作がろくに出来るわけないじゃないか。
そもそも他の創作は、言ってしまえば生活に直結したものではない。
極論、Blender、イラレ、文章が無くても一応人は生きていける。
ただ、食事は生きるのに不可欠な行為だ。
その食事という行為で遊び心を失ってしまったら、いい物なんて作れるわけがない。
一つの思想の芽生え。
実際、料理が億劫だから後回しにしていても、常に「あーそろそろ料理しないと」「冷蔵庫に入れっぱなしの食材が」「そろそろ買い物に行かないとスーパーが混む」「また料理をサボってしまった」という思考がバックグラウンドで走っている状態。
無理だな。そりゃ無理だ。
このままじゃ悲劇のヒロインである。
でも私は悲劇のヒロインになりたいわけではなく、幸せになりたいだけだ。
だから徒歩25分のスーパーにわざわざ足を運び、透明マットを払いのけ、放り投げた。
目指すは台所の主権回復、および失われた幸福の奪還だ。














