凡シュール

多面的世界の中

凡シュールのエッセイ

久々にフィットボクシングをがっつりやった。
最近は時間が無く3分の超お手軽コース(ミット)をやっているだけだったのだが、久々に30分くらいやった。

凝り固まった肩や背中がほぐれていく。
気持ちいい。
休憩を挟みながらとはいえ、意外と30分疲れずにやれた。
超お手軽コースでも毎日やっている効果があるのかもしれない。

少なくとも何もやっていない状態よりは、3分だろうが毎日やってる方が30分やった時に疲れづらい…
というよりは、30分を滞りなくやるために3分を積み重ねてきたというか。

それからはBリーグ中継を流しながら、料理をどう回すか考えていた。
10月からは土台作りに精を出しすぎて、すっかり料理習慣も途絶えてしまっていた。

しかし思う。
やはり外食や弁当は油が多すぎるなぁと。
そして野菜が異常に少ない。

まあさすがに自分の中の土台も整ってきた。
料理習慣をどう維持するかの答えも導き出してはいる。
言い訳めいて見えるかもしれないが、この2ヶ月ほどはあえて土台作りに集中するために、意図的に料理を休んでいた。

土台とはここ10年ほどの自分に向き合うに等しい行為だった。
物を捨てたわけではないが、自分の中の何かを断捨離していたようなものである。
料理は世間で思われてるほど気軽に出来るようなものではない。
創作に近いエネルギーが求められる。
両立は不可能と判断したうえだ。

今日は買い物に行こう。
久々に早起き出来たし、朝のスーパーに行くのもありかもしれない。
日曜の昼のスーパーは混むからね。

世の中に目を向けると、今日も世界はクソなように思えてくる
ニュースはもちろん、何もかもが異常に速く消費されていく世界。
理性や効率に偏りすぎている世界。
自分が馴染めない世界。

自分が自分でいる限り、世界がクソなのは変わらない。
絶望は無くならない。闇は消えない。

しかし少し視点を転換すると、世界は全く違って見える
効率に脅かされてはいても、依然と美しいものは存在している。
景色に感動し、配色本を見て綺麗だなと思い、純粋な文章や創作物に惹かれる。

生命の神秘すら感じる。
動物とは食って食われての血なまぐさい生活をおくるものだが、その生々しさが妙に美しく感じる事もある。
醜くも美しい
人間という生物の営みも案外それの延長なのかもしれない。

自分が自分でいる限り、美しいものは美しく見える。

結局は感性次第だ。
感性があるからこそ世界はクソに見えるし、また美しくも見える。
表裏一体
どちらが正しい間違っているとかではない。
見る角度を変えただけだ。

自分という存在もあながちそれなのかもしれない。
現状は誰も気にかけてくれない、モブのような人生を送っている。
それがひどく嘆かわしく思える時もある。

が、逆に言えばいちいち自分を気にかけてくる鬱陶しい何かが無く、自由にのびのびやれている、とも言える。
世間の監視の目を逃れているようなものだ。

自分を変えるわけではなく、視点をコロコロと変えているだけだ。
ある時は絶望し、ある時は喜びに満ち溢れている。
毎日がその繰り返しなのだろう。

だからこそ気の持ちようなんです。ポジティブな視点を持って生きなさい。
なんて説教するつもりはない。
こういう言い方をした瞬間に一気に説得力が無くなる。
言われた側からすれば「お前は何様なんだ?」となるからだ。

たしかに肩書きを持つ人間は、世間では偉いとされる。
しかしどんな功績があったところで、所詮は一人の人間に過ぎない。
どんなに偉い人間だろうが病気にはかかるし、いつかは必ず死ぬだろう。
功績が無効化されたら一人の無力な人間でしかない。
スキャンダルでかつての栄光が失われた芸能人から学ぶ事があるとすれば、それだ。

昔から「この人だって同じ人間のはずなのに、どうしてこんなに偉そうなんだろう?」とよく思っていたものだ。
偉そうに説教してくる人間に対しては「でもお前だっていつかは死ぬじゃん」と心の中で返してあげるといい。ライフハック。

そもそも本当に尊敬出来る人間は、他人にどうこう言う前に実践をしているものである。
必要なのは根拠のないクソみたいな正論などではない。
証明。誰もが思わず納得せざるを得ない証明をするのみだ。

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