2025年4月14日にnoteで公開した記事のリバイバル。
この頃、まさに理性感性論が誕生したんだと思う。
今日は気圧もおかしいし機嫌も悪いのでがむしゃらに書く。
世の中は理性に支配されているなと思う。
「いい歳してこんなの好きで〜」
「下手な絵を見せるのが恥ずかしい」
これらの言葉は、まさに感性が理性に支配されているからこそ出る言葉だ。
なぜ自分の感性に技術が求められるのだろう?
それによって表現する事を恐れている人がたくさんいる。
SNSを長時間見てしまう人。
イイネをする。共有をする。何かしらの発言をする。
それらは、創作をする気力が無い人たちの自己表現の一種なのではないだろうか。
創作活動が自己表現だとするならば、
SNSなどでこれが好き、これが嫌いと表明するのも、また一つの自己表現の姿なのではないだろうか。
みんな何かを溜め込んでいる。
だが、創作に落とし込む気力は無い。
なぜなら今の創作活動は、理性に支配されているからだ。
技術が求められ、数字で評価される。まるで通信簿のように。
そう。創作物を発表した瞬間、数字で評価される。
このnoteだってそうだ。
もちろん数字なんてものは気にしなければいい。
そんな事は分かっている。
だがデカデカと表示されるものを気にするなと言われても困る。
「こいつポエム書いてる!うわー笑」
私が実際にバカにされたわけではない。
この光景は実際に見たものでなく、フィクションで描かれていただけかもしれない。
だが、当時子どもだった私は「詩を書いたらバカにされる」と判断した。
絵に関してもそうだ。
そうしていつしかじゆうちょうに何も描かなくなった。
詩とはまさに感性に全振りした文である。
説明も何もない。ただ感性を言語化しただけのものだ。
絵だって感性を絵という形に落とし込んだものだ。
学校という社会の場で、感性を出す子供はバカにされる運命だった。
出すにしても、圧倒的技術力が求められていた。
ネットが普及してから不登校引きこもりクリエイターがたくさん生まれたのは、こういった背景によるものではないだろうか。
彼らは己の感性を守るために、一度社会(つまり学校だ)と距離を置くしかなかったのではないか。
これは学校に限った事ではない。
今のSNSだってそうだ。
会社で社会的役割の仮面を被り続け、SNSという場でも感性を出すのを躊躇する。
じゃあ一体どこで自己表現すればいいのか?
思えばSNSの承認欲求モンスターも、もしかしたらこの感性が弾け飛んでしまったパターンなのかもしれない。
理性に押さえつけられる感性、理性を飲み込む感性…。
なぜ理性と感性は潰し合いをしているのだろう。共存出来ないのか?
こんなにむしゃくしゃしているのも、きっと作業が思うように進まないからだ。
いや、進んではいる。終わらない。数が多い。
今は最も苛立つ時期だが、この時期の自分に感謝する時は必ず来るはずだ。
こんな重たい文章を書いているのも、きっと太宰の斜陽を読んでいたせいだ。きっとそうだ。