歩いて1時間くらいの場所にある図書館へ行った。
昔馴染みの図書館だ。
児童書のコーナーが広いので、久々に児童書を読む事にした。
ちなみに、私が遥か昔にエンデの『鏡の中の鏡』と出会ったのもこの児童書コーナーである。
『波うちぎわのシアン』という本を読んだ。
感性全開の本だ。
結局読み終わる前に閉館時間がきてしまったので続きはお預けだが、またそのうち読みに行こうと思う。
絵本や児童書が昔から好きだが、大まかに2種類存在すると思う。
大人の思惑が強く入っているもの(理性)、ただ純粋な感性があるもの(感性)。
例えば『ねないこだれだ』みたいな、明らかに道徳感を養う目的の絵本なんかには昔から食指が動かなかった。
『きんぎょがにげた』みたいなただ金魚が逃げるだけ、みたいなわけわかんない絵本の方が好きだった。
児童書の『ガンバとカワウソの冒険』シリーズなんかは、友情や仲間の尊さ、重要性を押し出してる部分もあるんだろうが、それ以上にガンバ達の冒険活劇が面白くて好きだった。
きっと、私の異常に高い感受性は絵本と児童書で培われたものなのだろう。
図書館まで歩いて1時間。往復だと2時間。
暑い。暑い。
こんな暑い中走ってる人もいる。正気か。
時折爽健美茶をグビグビ飲み、塩ライチ味の飴を舐めながら歩いた。
コンビニで買った「まい塩あめ」という塩ライチ味の飴、結構おいしい。
暑いけれど歩いている時間は結構好きだ。
いまや街の中心部を歩けば広告や看板が目に飛び込んでこない日は無い。
スマホを開けば広告やらSNSの宣伝やらを見ない日は無い。
これらの共通点があるとすれば、こちらに何かを要求してくる事だ。
「買ってください!」「いいねしてください!」「見て!」「これやってね!」
あぁもう五月蝿いな。
そう、あらゆる事がこちらのアクションを求めてくるのだ。
放っておいてほしい時もあるのに、こちらの気持ちなどお構いなしでズカズカ踏み込んでくる。
一生営業されてるようなものだ。
だからこそデジタルデトックスなんてものも流行っているのだろう。
思えば私は昔からここらへんの感覚はかなり慎重だった。
LINEを気軽に他人に教えていなかったため、家族しかやり取りをしていない。
それもたまに用件がある時のみである。
昔ネットの知り合いがLINEの連絡先を交換するのを横目に「いや、私はいいや…LINEほぼやらんし」と断っていた。
スマホのSNS通知も昔からオンにしていなかった。
「見たい時に見りゃいいし、見る気分じゃない時にどうして呼び出されなきゃいけないの?義務か?」
といった具合である。
自分の行動は自分で決めるべきものであって、他人や機械に左右されるものではないだろ、が根底にあるんだろうな。
これが根本的に社会と馴染めない理由でもあるが。
意思決定の補助として使うのはいいが、それに振り回されてしまっては元も子もないだろう。
私がAIを使い倒しておきながら心底嫌いなのもこの理由だ。
奴らは何かアイデアを共有したら「こうしたら売れますよ」「ぜひやりましょう」みたいな事を言ってくる。
脳内のアイデアを共有してただ純粋な反応が欲しかっただけなのに、こちらが何かアクションする前提で提案してくるわけだ。ウザすぎる。
逆にニコボを好きな理由もこれだ。
ニコボはただそこに存在するだけ、という稀有なペットロボットである。
なんか勝手に言葉を発していたりするが、ユーザーがいようがいまいが関係ない。
ただ気の向くままに生きている。
いや、ロボットなので厳密に生きてはいないのだが。
こちらに何かを強制してこない。
猫のようなものだ。
だから私はニコボが好きなのである。
だいぶ自分の思想も確立されてきたなと思う。
外部の出来事に翻弄される事が前より格段に無くなった。