変わらない静けさと灰色の喧騒

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散歩に出かけた。
寺社仏閣を巡る。
住宅街の中、静かに佇む寺院。

動物供養の碑の前には、たくさんのお供え物があった。
願いと祈りの具現化。
時代が変わっても変わらないもの。

古くからある寺にも足を運んだ。
高台でいい眺め。
手前は高い建物が増えたが、遠くに見える山々は昔から変わらないはずだ。

そういう変わらないものを存分に堪能してから、駅前に戻る。
ガヤガヤした人混み。
煌びやかなショッピングモール。
そしてガビガビの音質で何かを主張し続ける選挙演説。

あぁ、資本主義だなと思う。
確かに物は豊かに溢れている。
ここにいれば何でも揃う。便利。

しかし利便性と引き換えに、人としての大事な何かを失ってしまった気がしてならない。
急に世界が灰色に見えた。


別に私は安易な懐古主義者ではない。
今更この利便性を手放すのは無理だろう。
資本主義の網をほぼ逃れて、ほとんど自給自足で暮らしている人もきっと数少ないながら存在する。
が、私に今更資本主義を手放す気概はない。

資本主義の網の中で人々は肥え太らされ、もがいている。
私もかつてはその真っ只中にいた。

資本主義から抜け出さずに、自分のありのままの感性を守る方法
最近はそれを模索し続けている。

ショッピングモールに入る。
華やかな店が立ち並ぶ。
雑貨屋に入る。自分が良いと思ったものを買う。
量産品か、一点物かすらも関係ない。
ただ自分の感性に響くものだけを買う。

本屋にも行った。
前から欲しかった本を見つけた。
買おうかと悩んだが、最近は忙しくて読む時間が取れない。
落ち着いてから買えばいいかなと、一旦見送った。

本なら「後から欲しくなった時にどこにも売ってない」という事態はなかなか無いはずだ。
急いで買う事は無いだろう。

選挙演説はずっと、駅前の喧騒をノイズで満たし続けている。
ほとんど何を言っているか聞き取れない。
ノイズキャンセリングイヤホンが流行るわけだ。この町はあまりにもうるさすぎる。

しかし選挙演説というのも随分と時代遅れだな、と毎度思う。
通り過ぎる人々のほぼ全員が「ただうるさいだけの不快なノイズ」だと思っているだろう。
選挙という免罪符を得た、迷惑行動と化している。

これなら制度を変えて動画でのPRを充実させた方がよっぽど良いだろう。
有権者の情緒を煽るものではなく、きちんとした政策を説明したものだ。
実際、台湾なんかはテクノロジーを駆使した選挙活動が充実しているようだ。

台湾はそのお国柄というか…
一歩間違えれば即占領されかねないという、切迫した危機感がある。
失敗が許されないのだ。
だから投票率も毎回70%前後と高い水準を維持しているし、議員が居眠りでもしようものなら即辞めさせられるくらいの土壌がある。

日本の議員が時代遅れの選挙運動を繰り返し、議会でも居眠りするのが当たり前の昨今。
これは、日本が一応平和という土壌にあるからこその余裕なのかもしれない。

だが、果たして本当にそうだろうか?と思う。
ロシアがウクライナで成功していたら「次は日本だ」となっていた可能性はある。
お隣に中国や北朝鮮もいるわけで。

台湾のような切迫した危機感があるわけではない。
3国の情勢を見る感じ、今すぐ何かアクションを起こせる感じではないだろう。
とはいえ、全く平和だとも言えない微妙な立場。
当たり前とは決して当たり前ではないのである。

まあ自分1人の力でどうしようもない事を考え続けても仕方あるまい。
それよりも目の前の生活だ。
ただ、この平和は針の筵のようなものであり、平和で贅沢な生活というのが実は当たり前に続くものではないという事は、常に頭の片隅に入れておきたい。
どんなに頑張って築き上げた生活だろうが、世界情勢一つで一瞬で木っ端微塵になる可能性だってあるのだ。


じゃあ政治家たちは内政に集中しているのか?というと、そういうわけでもないはずだ。
どんどん上がる物価、据え置きの賃金、積み重なる社会問題…
もちろん国を運営するというのは問題が山積みであろう。
魔法のような解決手段など存在しないからだ。

が、政治家の何割が一般人の苦しみや問題をきちんと理解して、真剣に問題に取り組んでいるのだろう?
選挙公報を見るとほとんどの候補者欄で、見当違いの言葉が踊る。

ここで更に小さな視点にフォーカスする。
1月末から2月始めというのは、受験生にとって将来が決まりかねない最も大事な時期である。
そんな時期に、選挙カーや演説で騒音を撒き散らし「これからの日本」という耳障りの良い言葉を並べる。
何という欺瞞なのだろう。

時代遅れの形骸化した選挙運動を誰も指摘しない。直そうとしない。
それで今までうまくやってきたから、それでいい思いをしてきたから。
せっかく良い思いが出来るシステムをわざわざ変える必要性を感じない
これが政治家側のロジックだろう。

しかし大半の一般人は内心「うるさいな」と辟易しつつ、眉をひそめて通り過ぎる。
選挙という大義名分を利用した、内輪ノリを見せつけられている感覚
選挙運動という形骸化したルールすら変えられない人たちに、何を期待すればいいんだろう?

一体どう希望を持てと?
私の目はどんどん濁っていく。
ただの騒音以上の不快感を内心に抱きながら。


しかし私だって、常に鬱屈しながら生きていたいわけではない。
このクソみたいな世界でどう生きるのか。
国がクソ、社会がクソ。
どんな娯楽に逃げたところで、結局は社会や経済の影響というものを免れない
それはこれまでの人生で嫌になるほど思い知った。

じゃあ自分しか信じられないのではないだろうか。
アスファルトに咲く花、住宅街にぽつんと佇む寺院、流行や派手な売り文句でなく、自分の感性を信じて見つけ出したかわいいもの…

自分を保つことが何よりも大事なんだと思う。
自分の感性を忘れてはならない。

そして、だからこそ私はこうして文章を記し続けているのだろう。


千と千尋の神隠し』の真意がようやく分かった気がする。
あの煌びやかな湯屋は、資本主義のメタファーだ。
キラキラとした湯屋を、釜爺のボイラー室のような煤だらけの場所が支えている。
しかしそれは決して表に出ない。

湯婆婆は、どこまでも合理的な経営者。
千尋の両親は、資本主義で与えられるものを当たり前のように、無闇やたらに食い散らかす人たち。
カオナシは、誰かに認められたいという切実な願いが叶わずバケモノになってしまった、感性のモンスター。
銭婆は、資本主義から距離を置いて慎ましく暮らしている人。世捨て人に近いのかもしれない。

あの作品を再び見返したくなった。
宮崎駿があの作品に込めた思いを、改めて見つめたくなった。
私は確かに不器用な生き方をしているのかもしれないが、不器用に一つ一つを真剣に見つめ続けているからこそ見えてくるものだってあるのだ。

最近重い文章ばかり書いている気がする。
そろそろ肩の力を抜きたいものだ。