2025年1月31日にnoteで書いた記事のリバイバル。
我ながらいい記事だなと思う。なぜかnoteでは評価低かったけど。
noteと違って個人サイトは記事が増えれば増えるほど価値が高まりやすいと思う。
歩くのが好きだ。
普段、電車や自転車で通る道も歩いてみると新たな発見がある。
ゆっくり歩いていなければ見えない景色がそこにある。
細い路地、良い雰囲気の店、通りすがりの猫、綺麗な花。
あえて時間をかけて歩くことでしか見つけられないものだってある。
近所の道はあらかた歩き尽くしてしまった。
何度も歩いていると愛着もわく。
電車で一度訪れただけの街と比べると、よく見知った地元の方が特別感がある。
なんの面白みもない住宅街でも、そこに住んでいる人にとってはやはり特別な存在になるのだと思う。
道。マンション。
何の変哲もない道とマンションにすぎない。
だが「思い出の通学路」や「昔住んでいたマンション」となると、一気に特別感が出る。
何度も行き来する、何度も訪れる。
これは絆を結ぶ行動なのかもしれない。
散歩に限った話ではない。
例えば、何の変哲もないペン。
これも「10年愛用していた」の枕詞をつけるだけで、特別な物に昇華する。
付喪神なんて言葉もあるくらいだ。
小説などのフィクション作品だってそう。
さらさらと一気読みしただけの小説は、よっぽどの名作でないと印象に残らず忘れてしまう。
じっくり時間をかけて何度も読み返した小説は、人生の相棒にもなりうる。
人間関係も似たようなものかもしれない。
ただの他人が、何度も話し関係を深める事によって「かけがえのない人」や「親友」になったりする。
私はかつて「自分と全く同じ容姿、性質を持つ他人が存在したら、代替となりうるのではないか?」とぼんやり考えていたことがある。
ようするに、自分のそっくりさんが存在したとして、自分の知り合いから見たら自分もそっくりさんも大して変わらないのではないか。
私である必要は一体どこに存在するのか、とかそんな感じである。
結局はそれまでに過ごした時間で差がつくのかなと思う。
人と人の絆が深まる時。
フィクションにあるような「でかい困難を共有し、協力して立ち向かう」行動が絆を深めるのは勿論のことだが、そんなドラマチックなものがなくても、10年来の友達というものは特別な存在になったりする。
腐れ縁なんて言葉もある。
何の変哲もない道、物、ただの他人でも「思い出」がつくとかけがえのない物になる。価値が生まれる。
「星の王子様」にも絆を結ぶというくだりがあったなぁ。
買ったばかりの5000円する高級なカップよりも、20年使い込んだ100円のマグカップ。
どちらを大切に思うか?と聞かれたら私は後者を選ぶだろう。
価値というのは、必ずしも高品質な物が選ばれるわけではない。
絆によって本来の価値を上回る場合もあるのだろう。
この平凡なnoteも毎日投稿することで価値が上がっていくかもね。