凡シュール

答えの出ないディスカッション

凡シュールのエッセイ

2020年6月29日にnoteで公開した記事のリバイバル。
現在移行作業中のため一時的に読みづらくなっていますが後日修正予定です。ご了承下さい。

あ~、こんな事もあったかもしれないな。

まあいわゆる内輪ノリにも近いのかもしれない。

私が極度の内輪ノリ嫌いになったのはこういうエピソードの影響もあるのかもしれないな。

そして美術論。まあ遊びで語るくらいなら別にいいんじゃないの?と思いつつ、確かにこれをマジで語ってしまったら感性のぶつけ合いになるだけだなぁと今でも思う。

先日、私の運営してる作業通話内でこんな事が起きた。 10人くらいの人数が集まった時に、酔っぱらいが自分の関心ある事を語り出し、その話題に乗っかれる少人数の人同士で盛り上がり、他の人が置いてけぼりになる現象だ。

酔っぱらいは自分の話したい事を勝手に話すという生物である。翌日には、話した事どころか話したという事実すらほぼ覚えてないだろう。 その人の話した事が自分に大いに興味ある内容だったら、一緒になって盛り上がるのもまた普通である。 こうやって少人数が特定の話題で盛り上がり、他が置いてけぼりになるという現象が生まれる。

そもそも酔っぱらいに限らず、オタクが自分の好きなジャンルについて一人延々と話し続けて周りはちょっと置いてけぼり、なんて事はよくある。 作業通話では日常茶飯事だ。 ネットの世界だけでなく、職場の飲み会なんかでも毎度の現象だろう。酔っ払った上司が饒舌に語り出し、部下達が仕方なく相槌をうつ、みたいな。

その事象を通して自分の中の発見があった。 先日の話題は私も少なからず興味のある美術の分野だったが、その時は全く興味がわかなかったのだ。 趣味の野球観戦で贔屓球団がボロ勝ちして気分のいい状態であり、「ちょっと眠いけど、人の話をラジオ代わりにしながら軽く作業でもすっかぁ」みたいな心持ちだった。 美術論みたいな高尚な事を考えたり語ったりする気分では全くないわけだ。 だからほぼ聞き流して自分の作業に没頭していた。 HSP的な性質から「話題に参加してない人たち絶対つまんないよなぁ、大丈夫かなぁ」とボンヤリ心配していたくらいか。

気分じゃないのもあるが、私の考えからして、美術論とかアカデミックな事、哲学的な事って人とディスカッションするもんでもないよなぁという根本的なものがあるのかもしれない。 正解は人それぞれであり、どれが正しいか、どれが間違っているかなんてものは存在しない。 これってディスカッション全般に言えちゃうかもしれない。 だから私はディスカッションというものがそこまで好きではないのかもしれない。聞くぶんにはいいけど、自分から参加する事はないかな。

「別にそれぞれが己の正義を持ち合わせていれば、それでいいじゃん」と。

聞いてて、面白いと思う反面、結論が出ない事を延々とディスカッションし続けるのって馬鹿馬鹿しいなぁとも思ってしまうのだ。 そんなベラベラ語る熱量があるのなら、黙って手を動かしたいのだ。コミュニティ内でひけらかすのではなく、実際に表現しろと思ってしまう。 そもそも、そんなに語りたいならブログか何かに書き綴ればいいではないかと。 う〜ん、捻くれてるよなぁ。

もちろんディスカッションしたい人の気持ちも分かる。 他人と自分の意見をぶつけ合うのが楽しい人種も一定数いるだろう。いや、世の中そういう人の方が多いのかな。わかんないけど。 自分の考えに自信があって(或いは無くて)、人と話す事によって確かめたいという意味合いもあるのかも。 人の考えを聞く事によって自分の見識を広めたい人とか。

私も他人の考えを取り入れて見識を広めるのは好きだ。 興味ある話題は幅広いので、酔っぱらいの話とかでも結構真面目に聞いて、後から調べたり自分の考えを紡ぎ出してそこそこ楽しむタイプである。これは自分の一つの才能だと思っている。 聞き上手キャラ。聞き上手な人って思いのほか貴重な存在らしい、というのはここ数年で知った。

自分の気まぐれで始めた作業通話がいつの間にか何百人もの大所帯になっていて、あらゆる人が出入りしている。 今回の記事にしたようなちょっとした発見もある。面白いなぁと思う。

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