饗宴に乗り切れなかった人間の末路

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この2日活動が滞っていたのは、自分のルーツを深掘りしていたからだ。
自分の生まれ育った土地がどういう場所なのか、徹底的に考えていた。

半自伝が書けるくらいには考え抜いたが、結果的に私の故郷は東京という街に効率よく接続するためだけに発展した街、という結論に至った。
だからこそ駅から離れた不便な土地でも、ありえないほどに家がひしめき合う。
そして細い坂道だらけのしんどい土地を「オシャレなブランド」「東京にすぐ行ける」という売り文句だけで売り捌く。

そういう街で生まれ育ったんだなと、なんか急に理解してしまった。

私が妙に資本主義の欺瞞を見抜く力に長けてしまったのは、まさにその欺瞞の地で生まれて育ったからなのだろう、と。
これが自分でも引くくらい冷め切った視点の正体なのだ、と。

なんとなく昔から「自分は子供はいらない」と思い、実際今も子供がいない生活を過ごしているわけだが。
おそらく描かれたパッケージのような幸せを、私という個が徹底的に拒絶していたのだろうなと思う。

資本主義の饗宴に乗り切れなかった、悲しき人間の末路だ。


東京という街は夢でもなんでもなく、結局ただの徹底的な資本主義が施された街だ。
金があれば楽しい、金が無ければただ人だけが多い地獄のような街。
それが良いと感じて飛び込んでくる人もいるが、それに疲弊しきっている人もたくさんいる。
そんな現実を嫌というほど見て来た。

そして、そんな東京という街になんとかしがみつく首都圏のベッドタウン。
私の生まれ故郷はそのベッドタウンの一つだが、よりブランド感を強調しているエリアでもある。
坂だらけの住むには最悪の土地を高級感のある住宅街として塗り替えた、欺瞞の地。

そんな欺瞞の地でも、一応その地ならではのノスタルジーは存在していた。
が、それを暴力的に塗り替える再開発。
最近実家に帰るたびにこの再開発工事が目に入る。

かつて買い物がてら通り抜け出来たこぢんまりとしたショッピングセンターは解体工事のために閉鎖され、駅前は工事のために狭くなり、遠回りを強要される。

閉鎖されたスーパーの代替として、少し離れたところに仮設の店舗が出来た。
が、この仮設店舗は狭い。
再開発という理由でただでさえ少ないこの街の限られたスーパーが、狭い仮設店舗に押し込められてしまった。

再開発でもっと便利になるから仕方ない。
そうなのだろうか。
再開発工事が終わるのは10年後を予定されている。
10年間ずっとこの状態なのだろうか。
10年後のために、この街の住人は今現在こんな不便を強いられているのだろうか。

そうやって10年後に完成した街は…きっと知らない街だ。
かつての実家がある駅の面影なく、ピカピカのタワマン、美しく整った行政施設、キラキラした商業施設。
テンプレみたいな街になるのだろう。

10年後テンプレに作り替えられるために、今こうやって住民に不便を強いる。
街の存在意義って何なんだろう。
実家に帰るたびにまず駅前のこの光景が目に入る。
本当に何なんだろう。
だから最近、実家に遊びに行くたびに少し憂鬱になる。


首都圏で暮らすなんて、そんないいもんでもない。
かつての私は都心の満員電車に揺られながら「何でみんな東京に来たがるのだろう?人も多くて住みづらいじゃん」と本気で思っていた。
今なら視野も広がり、地方出身者の気持ちもある程度分かるようになった。
地元のしがらみからの離脱、仕事が無いから、大学が無いから、夢を追うため。あらゆる理由が存在する。

だが、
私は首都圏を脱出したくなってしまった。
この欺瞞まみれの街を心底楽しめなくなってしまった。資本主義の狂乱を。
夢から醒めてしまったのかもしれない。

東京はたまに観光で楽しむくらいがちょうどいい街だ。
住むようなところじゃないと思う。
特に、私みたいな鋭すぎる感性を持ってしまった人間には。
というか、単にキャパを遥かにオーバーしているのだと思う。
こんなにたくさんの人がひしめき合って住むような街じゃない。

そして、この私の心理状態が観光地出身者と全く変わらない事にも気付いてしまった。
前に石垣島について書いた記事があるが、現地で生まれ育った人たちの少し冷めた様子と自分が重なってしまう。

首都圏でない場所に憧れる…。
これは所詮、隣の芝は青いに過ぎないのか?

でも他の地方なら、めちゃくちゃ急で細い坂の斜面にありえない密度で住宅がひしめきあっているという事も無いし、通勤通学ラッシュで人間が積荷か何かのように押し込められている様子を日々目撃する事はないはずである。
ちょっとレジャーに行けば大混雑、帰りも大渋滞なんて事態も少ないだろう。
ただ寝るだけみたいな部屋に、バカみたいに高い家賃を取られるような事もないはずだ。
これだけでも天国に思える。

もちろん、首都圏という場所がとてつもなく恵まれているという事は理解している。
これはマウントではない、恵まれているのは事実だ。
だが同時に、その大半が資本主義によるまやかしによるものだと見抜いてしまう視点を持ってしまった。
それに、ある程度の利便性は地方の中規模都市も保証している。生きていくには十分だ。

もちろん日本全国、いや世界中…資本主義のロジックが全く通用しない場所はもはや存在しないだろう。
しかし、今の首都圏は資本主義と共依存して泥沼に浸かっているようにしか見えない。
その共依存っぷりが少しでも薄まっている地方に逃げ込みたいと思うのはおかしいのだろうか?


もはや私の感性が酸欠しかけているのかもしれない。
死にかけの魚の気分だ。

もしかしたら、芥川龍之介や太宰治の感じていた絶望や不安に近付いているのかもしれないな。
私にはもしかしたら適応障害といった何かのラベルが貼られるのかもしれないが、私はただただ正気なだけだ。狂気側の正気な人間へのラベル。
社会が正しいと思い込んでいる、傲慢に基づいたロジックだと思う。

何らかの診断が下されたら、きっと薬を処方されるのだろう。
薬で心の痛みを和らげる行為。
それは癒しだろうか?
はたまた麻痺させているだけだろうか?


私がひたすらかわいいものを集めているのは、この異常な世界でそれでも美しいものをひたすら探しているからなのかもしれない。
まだこんなにもかわいいものが存在している、この世界は捨てたもんじゃないと思うために。
私をこの世界に繋ぎ止めるためのもの、生命線。

個人サイトを運営して誰に読まれるでもないエッセイを書き続けているのも、きっと存在証明をしているのだろう。
SNSといった資本主義のステージなどではない、私だけの居場所だ。

きっと、居場所が欲しいだけなんだと思う。ずっと。