2022年5月12日にnoteで書いた記事のリバイバル。
現在移行作業中のため一時的に読みづらくなっていますが後日修正予定です。ご了承下さい。
選択の科学は改めて読み直したいなぁ。
最近気圧やら何やらで体調が優れない。頭は痛いし身体はだるい。 やりたい事は多々あれど、何だかやる気がしない。気持ちだけがどこかへ飛んでいってしまった。 いわゆる五月病的なものなのだが、そもそも五月病も結局は気圧とか季節の変わり目に影響されて身体や脳が上手く働かない症状なんだと思う。
そんなわけでゲームに逃げていたりもするが、あまりゲームをやりすぎると本当に廃人になってしまう。 仕事やら何やらという枷が無い分、ゲームをやろうと思えば一生出来てしまう不自由のない生活。 ある程度の自制は必要だ。
かといってこの身体じゃ他に出来る事も少ない。 常に5つくらいデバフをかけられてる気分だ。 頭痛、けだるさ、理由のない苛立ち、腹の不調、眠気…。 こんな状態で無理やり動いたところでろくな事にならない。 というわけでゲームをやってる時以外は大人しく読書したり寝たりしている。
最近読んでいるのが「選択の科学」という本だ。 私にしては珍しいタイプの本を読んでいる。 生きるにあたって必要不可欠な「選択」というものに焦点が当てられた本だ。この本がなかなかに面白い。
アメリカとアジア地域の文化の差にも触れている。 アメリカは幼い頃から個人の選択を尊重し、自分で選ぶことを良しとする教育を受ける。 反対に日本も含むアジア圏は、個人の意思そのものよりは集団の調和が重視される。
著者は、親がインドのシーク教徒で幼い頃から服や食べ物を両親に全て決められたが、アメリカで育ったのでだんだん個人主義的な考え方にも触れてきたそうだ。 そんな著者ならではの考えが様々な実験結果と共に紹介されている。
結婚についての下りは、個人の選択が必ずしも幸せをもたらすわけではないという事が書いてあった。 お互いが惹かれ合う恋愛結婚と、親族が結婚相手から何から全てを決める「取り決め婚」がある。お見合いもその一種だろう。 アメリカ人からしたらほとんどあり得ないとされる「取り決め婚」だが、結婚後の家庭を作るうえで愛情が生まれるケースだって多くある。 実際に著者の両親も「取り決め婚」で、結婚式で初めての顔合わせだったようだ。 アメリカでは馴染みのない「取り決め婚」だが決して不幸な結婚というわけではないし、実際にインド人は「取り決め婚」という制度に不満のない人が多数のようだ。
この本を読んでいて思ったのは、私自身は個人主義的な考え方が強いと改めて感じた。 私が働いていた時はとにかく決められた事、与えられた仕事ばかりで、自分の意思や選択が介在する余地はほとんどなかった。 ただ上司や先輩に従うだけの仕事。それが楽だと思う人もたくさんいるだろうが、私にとっては苦痛でしか無かった。 別に仕事にやりがいを求めていたわけではないが、自分のやる事が全て人に与えられたもの、自分の意思や選択など関係ないという環境がとにかく嫌だった。 会社勤めより色々大変な部分が多いフリーランスの方がよっぽど魅力的に思える。今でもそう思う。 全て自分で選べるから。たとえその選択に常に責任が伴っていてハードだとしても。
だからこそ集団主義を是とする日本社会では、ずっと居心地の悪さを感じて生きてきた。 あと日本ならではの歪みも感じる。 今の日本社会には、もともと集団の輪を尊重して育っている日本人の気質を無視して、欧米の形だけ真似しているなと感じる部分がある。 教育でも、仕事でも。
個人主義なら個人主義、集団主義なら集団主義でどちらかに振り切ればいい。 だが結局どちらも中途半端になっている。 個人の意見を強く持って欲しいのか、集団の輪を乱さず手を取り合わせたいのか、どっちなんだ。 ものすごく居心地が悪い。
そんな事をぼんやり考えながらも、いまだに寝転がったままだ。 だが人間無理は禁物だし、休息だって大切なことである。 元気になったら、休んだぶんだけ思い切り動けばいい。 今は思い切り動く為の充電期間なのだ。 そう考えているので、私は休むという選択をとった。
決して不可抗力で動けなくなっているのではない。
