日常とは儚いものだ。

凡シュールのエッセイ

2020年4月8日にnoteで公開した記事を移行したものです。


明日も生きている自信があるだろうか?」私はない。
別に例の新型ウィルスにかかって死ぬかもとは思ってないし、自殺する予定があるわけではないが。
交通事故に遭わない可能性は0ではない。
新型ウィルス以外の病気で突然死する可能性も0ではない。
突然誰かに殺される可能性だって0ではない。
どれも宝くじレベルで限りなく可能性は低いが、完璧な0とは言い切れない。

突然の不幸は私じゃなくて身内に降りかかる可能性だってある。

まあまあ、そう悲観するな。
確かに以前の私はこれらのことを恐れて生きていた。
今もこわいっちゃこわいが、昔よりはだいぶマシになった気がする。

確実に言えるのは、生きていればいつか必ず死ぬということだ。
それが早いか遅いかは外的要因によるものが大きい。
未来予知能力なんてないんだから、いつ死ぬかなんて分からない。
知りたくもない。

ただ出来る事は、毎日せいいっぱい生きるだけだ。
確かに人生はときに不幸の連続だが、その中でもどうにか楽しい事を見つけ出して生きていく。
出来るだけ笑って生きていきたいが、まあ笑えない気分の時は無理して笑う必要はない。

当たり前すぎて忘れがちだが、この人生も限りあるのだ。

もし明日死ぬとしたら。
私はせいいっぱい生きる事が出来ているだろうか?
もちろん未練はたくさんある。
目標が成し遂げられなかったという無念もある。

でも自分が本当にやりたい事が分かっていて、今の自分に出来る限りでせいいっぱい目標に向かっていた、と思う。
だから悔いはない。
いわゆるベストを尽くしたってやつだ。

確かに社会からしたら自分は何もしていない人間だし、他人に必要とされているのかされていないのかも分からない。
でも自分の本当にやりたい事は分かっている。
これは自分の中でうんと考えて導き出したやりたい事だ。
だから妥協して生きていないという自負がある。

自分の本当にやりたい事が分かる。
実はそれが分からず、あるいは考えた事もなく何となく生きている人が大半なんじゃないかなと感じる事がよくある。
でも私はやりたい事に出会えた。
それだけでも幸せなんじゃないかなと思う。

今日も生きている事に感謝して、いつか終わる人生の為にせいいっぱい生きよう。

追記(2025年6月21日)

まぁ素直すぎてこっ恥ずかしくなる文章である。
結果、私は精一杯生き続けて2025年に至る。
妥協した事はない。

何者にもなってなくて、誰からも特に必要とされていないが、妥協は全くしてこなかったという自負がある。
問いを持ち続けて、捨てず、折れず、妥協せず、理性感性論なんて理論までこしらえた。

だからやっぱり、この頃の私は地続きなのだろう。