凡シュール

神はいない、人間だからこそすごいんだ

凡シュールのエッセイ

2025年4月3日にnoteで公開した記事のリバイバル

豪華対談ってやつだ。
2人ともどこか神秘的で、繊細で強い。
まさに神と表現されがちな2人といってもいい。

確かにこの2人は突出した存在だ。才能の塊。
硝子のような繊細さ、儚さと芯の強さ・頑丈さの両方を持ち合わせている。
こんな繊細な人種が最前線に立ったら、普通は粉々に砕けてしまうだろう。
それでも折れる事なく最前線で活躍し続けている。まずそこがすごい。

才能の塊でありながら、ストイックすぎる姿勢。
いや、ここまでストイックになれるのがまさに才能というべきか。

特に羽生結弦のストイックさはどこか恐怖を覚えるレベルだ。
動画内で語られていた北京五輪前の自分への追い込みは、常軌を逸するとすら思った。

一般人の我々からして、彼らの才能は理解不能なレベルだ。
「何食って育ったらこんな才能が…」
「本当に同じ人間なのか…?」
彼らに対してこう思った事はないだろうか?

いや、彼らではなくとも、何か突出した才能を持った人にこう感じた事は?
私はある。もちろん。何度も。
そして人は、自分の理解出来ないものを神として崇めてきた歴史がある。

日本は八百万の神を信仰していたわけだが、実のところ自然災害や現象、めっちゃすごい人たちを擬人化してきたようなものなのではないか?と思っている。
擬神化とでも言った方がいいだろうか。

現代でも神と呼ばれる人たちはいる。
それこそ冒頭の米津玄師や羽生結弦もそうだし、神絵師と呼ばれる人たち、他にも様々だ。

だが忘れないでほしい。
彼らだって1人の人間に過ぎない。

いつかは必ず死ぬし、人並みな悩みもきっとたくさんあるだろうし、感情だってもちろんあるし、時には間違う事だってあるかもしれない。
神ではない。
でも、だからこそ。

同じ人間だからこそすごいんだと思う。

これが本当に神だったら本当に「神すげー」で終わってしまいそうだ。
でも彼らが人間だからこそ、その裏の困難や葛藤が垣間見える。
そこから這い上がってなお咲き誇る美しさに心を奪われ、震えるのだ。

だから私は彼らを神として崇める事はしない。
同じ人間としてリスペクトし続けている。
わかりやすい呼称、共通言語として神って使う時はあるけどね。

米津玄師と羽生結弦も動画の冒頭でお互いを神のような人って評しててちょっと笑った。
冒頭の対談動画は、そんな彼らの凄さに圧倒されつつも人間らしい一面も垣間見れてとても良かった。

BOW AND ARROWも激しく突き刺してくる美しい曲。心が揺さぶられるとはこういう事か。
羽生結弦のスケートと合わさったMV、あまりにも完成形だ。
儚くもあり強さ・硬さも感じる。まさに氷のようではないか。

10日ほどずーっとやり続けてた作業がようやく一区切り迎えた。
作業が終わると何が始まるのか?
新しい作業が始まる。無限ループだなぁ。

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