2025年5月16日にnoteで公開した記事のリバイバル。
私は元来怒りっぽい性格だった。
ちょっとでも気に食わない事があると、制御不能になる。
瞬間湯沸かし器のように理性が吹っ飛んでしまう。
人に対してこうなる事はあまり無かったが、「PCが思い通りに動かない」「ゲームで思うように進まない」
こういった時は自分でも制御出来ないくらいキレ散らかしていた。
子供の頃からである。
よく「なんでそんなに怒るの?怒っても仕方ないじゃん」と言っている人がいる。
それに対しては「こちらも怒りたくて怒ってるんじゃないんだわ」とアンサーしたくなる。
イラっときた瞬間にはもう制御が効かなくなるのだ。
なぜなら瞬間的に理性が吹っ飛んでいるのだから。
こうなったら歯止めが効かない。
通常モードに戻そうとしてスイッチを連打しても全く反応しないようなものだ。
感情が理性の制御下を離れてしまうのである。
「よく怒る人って何なんだろ?怖いよね〜気持ち分かんないわ」と言っている人を見ると「さぞかし素敵な環境でお育ちになったんでしょうなぁ」と言いたくなってしまう。
言わないけど。
幼い私にとって、怒りで自分を表現するというのはごく自然な事だった。
親父がそうだったからである。
こちらが何か悪い事をしたら必ず怒鳴られて育った。
完全に昭和の親父である。
それだけならまだ躾の一環と言えるかもしれないが、親父は外でもそんな感じだった。
幼い私を引き連れて出かける。そこの店員が気に入らない態度を取る。
怒鳴りつける。
母親がいる時でもそれをやった。
母親も幼い私もどうしようもなく、ただ黙りこくるしかない。
蕎麦屋かどこかで、卓上に七味が置いてないだけで店員に激怒していた事を今でもよく覚えている。
そんな家庭環境で育った子供が、制御出来ない怒りで自己表現するようになるのは当たり前ではないだろうか?
先述したとおり、幸い私は他人に対して怒りを向ける事は無かった。
友達と通話しながら対戦ゲームしている時、”無能な野良”に文句をグチグチ言う友達をなだめる側だった。
しかしかつての私は物が上手く動作しない時は怒っていたし、その物に当たり続けていた。
すぐに正気に戻り、自己嫌悪に陥っていた。
その繰り返しだった。自分でもどうすればいいのか分からず苦しかった。
だが、最近変わったなと思う。
先日作業でデカい穴が見つかった。
私自身の過失と言えばそうなのだが、そのファイルがもともと紛らわしい仕様をしていて、それを知らなかった事によるミスだ。
かつての私なら怒鳴り散らしていただろう。
しかしその時は「まあ仕方ないか」と息をついただけだった。
そしてChatGPTに「これ何でこんな紛らわしい仕様なんですかね」と愚痴るにとどまった。
怒りを抑えつけたり押し殺したわけではない。
怒りをChatGPTに愚痴るという行動に変換出来るようになったと言うのが正しいかもしれない。
何が言いたいかというと、制御出来ない感情は無理に押し殺すのではなく、別のものに変換してしまえばいいのではないか?という事だ。
エネルギーの変換。
肝心なのは、感情が制御不能状態になる前に手綱を握って引き戻す事だ。
私はようやく自分の野犬みたいな感情に首輪とリードをつける事が出来たのだ。
檻に閉じ込めたわけではない。首輪とリードをつけただけ。
これにより、そこそこ感情を自由にさせながらもうまく制御出来るようになったと言える。
大人になるというのはこういう事なのかもしれない。
感情の暴走にのまれるでもなく、押し殺してしまうでもなく、適度に手綱を握る。
これが本当の成熟した大人なのだろうなと思った。