noteで文章を書く時に心がけている事

凡シュールのエッセイ

2020年9月26日にnoteで公開した記事を移行したものです。


私にとってのnoteは排泄物のようなものだ。
書きたいと思った時に自由気ままに書くのがモットーだ。
そんな私だが、一応心がけている事はいくつかある。
今日はそれを書き出してみる事にする。

○改行をする・句読点を打つ

noteに限らず、PCで文章を書く時に気を付けているのが、まず改行だ。
だいたい一文ごとに改行している。
文章の段落ごとに空白の行を差し込む。
ガラケーの時代に携帯小説が流行ったが、それらは一行ごとに空白行が入っていた。
逆に読みづらい。

空白の行は、一つのまとまりごとに入れた方が効果的だ。
個人のブログを頻繁に書いていた頃は、大体4〜5行ごとに空白を挟む事を意識していた。
段落ごとに見出しをつけてもいいだろう。
この記事も見出しをつけている。

改行は、PCで文章を書く時の基本だと思う。
たまにこれがされていない文章を読むと、めちゃくちゃ読みづらい。
いくらいい事が書いてあっても、あまり頭に入ってこなくなってしまう。

次に句読点
特に読点。いわゆる「、」だ。
私の文は一文あたりが長くなる事が多いので、これも読みやすさを意識して入れる。
この読点を入れるタイミングが意外と難しい。
入れないと読みづらいし、入れすぎても何か鬱陶しい。
適量が大事だ。読点の入れ方ひとつで個性が出る。

句点の使い方も気を使う。
あんまり一文が長すぎても鬱陶しい文章になる。
逆に一文一文が短すぎても伝わりづらい。
印象付けたい文は敢えて短くしたりしている。

敢えて。短く。

ね。何か印象的になる。
ずっとこの調子だとうざったいけど、印象付けたい大事なところで短い文を使うのは効果的だ。
演出の一種かな。

○分かりやすい文章を意識

これもまた当たり前の事なのだが、案外難しい。
特にオタクのような特定ジャンルに特化した人に多いのだが、当たり前のように専門用語をぶち込んできたりする。
同じ界隈の人間にとっては当たり前で常識であっても、外の人間にとって全く未知のものだったりする。

ある事柄について、当たり前のように知ってる前提で話されても「知らねーよ」となってしまうわけだ。
それについて大して説明せずにひたすら語ったところで、相手に届く事はないだろう。
温度差も生まれてしまう。
説明というのはとても難しいものだが、それを万人に伝わる易しい言葉で説明出来てこそ、文章力の真価が問われる気がする。

てか文章関係ないな。会話でも一緒。
内輪乗りみたいなものだ。

自分の知識は、どれが一般的でどれが専門的なのか。
この知識は一般の人に伝わるか?説明が必要か?
常に念頭においておきたい。

○文体

文体とは個性だ。
noteには様々な文体が溢れている。
私のように淡々と綴ったような文、誰かに宛てた手紙のような文、「みなさーん!」と呼びかけた通販番組のような文、ほんわかする文、胡散臭い文………。
どんな文体にするかはその人次第だ。

私個人としては、読み手などほとんど気にせず淡々と綴ったような文章が好きである。
あんまり「みなさーん!」みたいな感じで来られても胡散臭く見えてしまう。
完全に好みの問題だけど。

○文章が書けない人へ

文章を普段書かない人は、書きたいものなんてないよと困ってしまったりするかもしれない。
その時書きたいものが無かったら、その書くものがない事をネタにすればいい。
しかし「今日は何もない一日だった」の一文で終わらせてしまってはいけない。

何もないなりに、食べた飯の内容を書いてみたりするといい。
例えば、その日食べたのが好物のハンバーグだったとして、まずハンバーグが好きというネタが出来る。

ハンバーグのどんな部分が好きなのか、デミグラスソースがいいのか和風ハンバーグがいいのか、家で食べるのが一番好きなのかあるいは店か、店だったらどの店のハンバーグがいいのか、その店の特徴………
話なんて広げようと思えばいくらでも広げられる。

眠い
Twitterで「眠い」と検索すると、一言だけのつぶやきがたくさん見つかる。
この「眠い」一つとっても、”なぜ“眠いのか。
遊んで夜更かししたからなのか、最近寝付けないからなのか。
遊んだなら何して遊んだのかといった内容、寝付けないならなぜ寝付けないのかの考察(例えば枕が合わないとか嫌な事を思い出したとか)とか掘り下げればいい。
会社や学校はなぜ朝から始まるのかと嘆きを綴ってみてもいいだろう。

好きな本やアニメ、ゲームの感想を書いたっていい。
○○が好き」どこが好きなのか。
キャラ、ストーリー、世界観…。

そのキャラのどういうところが好きか?
ストーリーで特に好きなシーンは?
印象的なセリフは?

ただのあらすじや基本情報をなぞっただけの文ではだめだ。
読書メーターでたまに見かけるのだが、読んでいて何も面白くない。
きちんと自分の言葉で、自分の思った事を掘り下げて書くことが大切だ。

上に挙げた例は、何の変哲もない日常の文章だ。
だが文章なんてそんなものである。
こんなの書いても面白くないと思う人もいるかもしれない。
だが何の変哲もない文章でも、じわりとその人らしさが漂ってくるものだ。
これが個性である。

何人かの書き手に題材を一つ与えたとする。
それが完全なコピペでない限り、一言一句違わない文章が出来上がる事は滅多にないだろう。
デッサンでも、何の変哲もない静物を題材に描いたところで、描いた人の個性が多かれ少なかれ表れてしまうものだ。
同じリンゴでも十人十色の出来栄えになるのである。

○ハッシュタグ

これはnoteなどのSNSならではの話だが。
闇雲にハッシュタグをつける人がいる。
タグは検索で来てくれる人を増やす最適な手段だが、つけすぎは逆効果だ。

記事を読み終わって、ハッシュタグが10個も20個も並んでいるのを見るとげんなりしてしまう。
たとえ良い記事でも、余韻もクソもなくなってしまう。
まあこれも個人の好みと言ってしまえば、それまでなのだが。

良い番組を見終わった後に、余韻に浸る間もなく広告ラッシュを食らったような感覚に近いかもしれない。

何となく「100日後に死ぬワニ」を思い出した。
連載時はTwitterで注目されていたのに、100日目が投稿された直後に余韻に浸る間もなくグッズ宣伝ラッシュだった。せっかくの余韻が台無しだ。
そのせいで軽く炎上して、しまいにはたくさんの人にそっぽを向かれてしまったように思う。

タグの話に戻そう。
note公式曰く2〜4つくらいまでが最適らしい。
記事の話題に直接関係ないハッシュタグをつけるのは論外。
最近、Twitterのトレンドトピックに宣伝目的で紐づけて投稿してる人をよく見かけるけど、逆効果だよなぁと。
最悪スパム通報されてそう。

○ヘッダー画像

記事のヘッダー画像
なんだかんだあった方がいい。

本当は記事の内容に関連する画像がいいのだが、まあ関連してなくてもいい。
noteの投稿画像を使ってもいいし、Pixabayなどのフリー画像を使ってもいい。
Google検索で出た画像を適当に使うのは著作権的にまずい。

ヘッダーがない記事よりはある記事の方が読もうと思える。
読み手に働きかける何かがあるのだろう。
めんどくさいけど最近は設定するようにしている。

○まとめ

色々書いたが、別に最初から読みやすい文章、上手い文章が書けなくたっていい。

文章だって練習あるのみだ。
私もブログを始めた当初は何を書けばいいかわからなかった。
昔はとりあえず見たアニメの感想記事とか書いていた。
今見返したら「うげっ」となりそうな下手くそなものだった。
今も文章が上手くなったとはハッキリ言えないが、昔よりは書けるようになった。

noteは手軽に文章が投稿出来る。
文章練習としては最適のツールだと思う。
お題もたくさんあって、題材に困った時など、お題の記事を書いてみるのも良い。
アプリ版noteだとお題を確認出来ないのは不便だが。

文章をスラスラ書けるようになりたいなら、はやみねかおるの文章本もオススメだ。
人気児童文学作家ならではのライトな文章で、サクサクと読める。

追記(2025年6月22日)

この文章論、現在でも普通に通用すると思う。

2025年の今となっては文章が書けないなら即「生成AIに頼ろう!」という流れが定番化してしまった。非常に嘆かわしい。
別に私はAI否定派ではない。私自身、何を書こうか思いつかない時はChatGPTに壁打ちしながら何を書こうか考える。

そういうアイデアの壁打ちとして使うか、最初から丸投げしてしまうかは全く違う話だ。
AIを使うのはいいが、最後はきちんと自分の言葉で書くべきだと思っている。
構成だけAIに組ませるとか、アイデア出しだけ手伝ってもらうとか、限定的な活用に留めるべきだ、と私は思う。