凡シュール

”最近のオタク”への違和感から、オタクという存在について考える

凡シュールのエッセイ

2020年10月8日にnoteで公開した記事のリバイバル。
現在移行作業中のため一時的に読みづらくなっていますが後日修正予定です。ご了承下さい。

この記事は私にしては珍しくそこそこ数字が出た記事だ。

そのおかげか月日が経っても時たまイイネがつくような記事。

この記事を書いたきっかけは、確か当時運営してたDiscordサーバーの女子大生だかがやたらめったらオタクアピールしてきたから書いたんだったと思う。

オタクって何なんだ?と考え込んでしまったわけだ。

オタクという存在が迫害されていた、隠すべきものだった青春時代を過ごしてきたからこその発想だったのかもしれない。

何にせよ、5年経った今の方が刺さる人が多い内容なのかもしれない。推し活疲れ、みたいな。

私は多分オタクだ。

なぜか”多分”という言葉が付く。

ぶっちゃけ興味の幅は広いし、ミーハーじみたところはあるし、実はオタクから程遠い存在なのかもしれない。

しかし好きなカテゴリ…例えばドールとかぬいぐるみとかなら、好きなメーカー、こだわりなどでめちゃくちゃ語れる自信がある。

なんなら、前にドールを知らない人や初心者向けのドールについて書いた記事で、2万字くらいしたためた事がある。

別に2万字書こう!と意気込んだわけではない。ただ伝えたい事を書き纏めただけだ。なんか気付いたら2万字超えてた。

あと、一時期は最新アニメを全部チェックして、その感想やポイント、どこが素晴らしいかあるいはどこがダメなのか書くという事をやっていた時期もあった。ここしばらくはチェックがしんどすぎてやってないけど。結構知り合いから評判良かったと思う。

ストーリー、キャラクター、作画や演出などの観点から分析するのが楽しかった。

今絶賛練習中のイラストも、関連書籍やサイトを読み漁り、塗りの種類や知識などについて語れるし、好きなイラストレーターさんについては構図が素晴らしいとか、配色が素敵だとか、いかに尊いかをめちゃくちゃ早口で語る事が出来るだろう。

言っちゃえばハンドメイド関連もそうか。

興味を持ったら突き詰めてしまいがちだ。

だから多分オタク気質なんだとは思う。これだとオタクというかマニア?

それでも同人界隈の人達と会話していたりすると、結構そのコンテンツを盲目的に愛でている人が多くて「一つのコンテンツでここまで盲目的になれるものなのか…」と冷静になる。

こういう人を見ると「自分大してオタクじゃないな」と思ったりする。

まだ前置きは続く

”オタクコンテンツ”というものがある。

いわゆるアニメやゲーム、漫画などがそれだ。

私も小さい頃から親しんできた。

小学生当時、ちょうどポケモンが流行りだした時代で、クラスで大ブームだった。

流行ってたんだから、当然私もポケモンが大好きだった(なんなら今でも好きだ)。グッズやおもちゃもたくさん持っていた。アニメも欠かさず見ていた。

ポリゴンショックでアニメが一時休止した際、もうすぐ放送再開だという情報を得て、クラスで意気揚々と喋っていた事がある。

するとクラスメートに「詳しいね」と言われた。

ポケモン金銀(当然ゲームボーイの時代だ)の発売日は、たまたま友達のピアノの発表会だったのだが「早くやりたいいいい!早く終わってくれえええ!!!」としか思っていなかった記憶がある。

ポケモンに限らず、小学生当時はケーブルテレビでアニメchばかり見ていた。ウテナとか好きだった。夏休みはタッチが楽しみだった。

明確にオタクらしいオタクになったのは高校生の頃で、ニコニコ動画にハマりだしてからだと思うが、こうして書くと小学生の頃からオタクの片鱗はあったんだろうなと思う。

古のオタクの中では新しい部類なので、名乗るのは正直烏滸がましいとは思うのだが、相対的に古のオタクに分類されるのだろう。

で、その”オタク”という言葉。

マスコミに最初に使われたのは89年に幼女誘拐事件があった時らしいのだが、生まれていないのでさすがによく知らない。

明確に”オタク”という存在が取り上げられるようになったのは、”電車男”のブームからなのかなと思う。

あと、ニコニコ動画が出てきた時代_まさに私が高校生だった頃だが_にハルヒやらき☆すたなどが流行り、いわゆる”アキバ系”という言葉が台頭する。

かつて電気街だった秋葉原は、いまやオタクカルチャーの街だ。

昔は、オタクといえばステレオタイプなオタク…いわゆる「○○でござるな」とかいう口調で、笑い方が「デュフフフフフwwww」で、太っていて、服がダサくて気持ち悪い、犯罪者予備軍…みたいなイメージが一般的だったが、そんな事も無くなった。

綺麗な芸能人がTVで「私○○(作品名)が大好きなんです!」と公言する時代だ。

ここから本題

全然本題に入れていない気がする。ここまで前置きか。なげーよ。

かつて日陰者でしかなかった”オタク”も、最近はだいぶ日の目を見るようになった。

アニメや漫画がだいぶ浸透して、今の中高生はオタクコンテンツに触れるのが普通になっているなと思う。

ひと昔前、人気ドラマが放送された翌日は「あのドラマ見た?面白かったよねー」みたいな会話がクラスで起こっていたものだが、最近は「あのアニメ見た?面白かったよねー」なんて会話があるんだろうなと。

「鬼滅読んだ?」とか。

俳優やアイドルの話に交えて、普通に声優やVtuberの話もするのだろう。

もう何年か前の話になるが、本屋の漫画コーナーで中高生2人組の女の子が「花澤香菜かわいいよねー」みたいな話してて「おっ、最近の中高生は声優の話もするんだな〜」と思った記憶がある。

そんなオタクカルチャーが一般化してきた昨今。いい時代になったものだ。

当然、表立ってオタクを自称する若者も増えた。

だが、最近オタクを名乗る若い子たちと話していると、何だか違和感を覚えてしまう。違和感の正体について、無い頭を捻って考えてみた。

最近のオタクの特徴

まず、最近のオタクならではの特徴を挙げてみる。最近の、で括っていいのか分かんないけど。

全員が全てに当てはまるわけじゃないと思うけど、大体こんな感じ。

・自分がオタクである事を主張してくる

・必ず”推し”がいるし、推しには必ず貢ぐ

・オタク活動を必ずSNSで報告

・「尊い…(語彙力)」が常套句

・解釈違いは絶対に許さない

ぱっと思いつく感じこんなところか。以下、一つずつ見ていってみよう。

自分がオタクである事を主張してくる

「自分オタクなんですよ〜」とやたら名乗ってくる。

かつてはオタクを自称しようものなら人権を失いかねない勢いだったので、いい時代になったと思う。思うのだが。

元来、オタクとオタクが出会ってしまった場合、お互いが主張しなくても会話の端々に知識がほとばしっていて「これは同志の気配がするでござる…」と思ってしまう瞬間があったものだが。

自称オタクに対してはそういうのがない。オタクを名乗る割には知識量があるわけではなかったりする。

まあこれはしょせん古のオタクの戯言かなとも思うのだが…。

必ず”推し”がいるし、推しには必ず貢ぐ

かつてのオタクカルチャーに”推し”という概念はあまりなかったように思う。

おそらくAKB48が流行って総選挙とか始めたあたりから、推しという言葉が浸透したのだろう。

昔はせいぜい「好きなキャラは?」「誰派?」と聞いていたところを、最近は「推しは誰ですか?」と聞くのが当たり前になってる感。

私はデレマスが好きで、その中でも緒方智絵里がダントツで好きである。言ってみれば推しってやつなのだが。

じゃあ貢ぐのかといえば、そういうわけではない。今のデレステのガシャで限定SSRの智絵里が出てくるが(しかもめちゃくちゃかわいい)、手持ちの無償石分しか回していない。それで出なかったので諦めた。

推しといっても智絵里のステータスに詳しいわけじゃないし、グッズなど貢いでいるわけではない。私はやっぱりそんなにオタクじゃないんだと思う。

でも、智絵里が踊っている画面は慈愛に満ちた笑顔で見つめ、智絵里の出るコミュを見ては「あ”あ”あ”あ”あ”かわいいいいい」と発狂している。

文字におこすと我ながら気持ち悪いな。

そもそも”推しへは貢ぐもの”という常識が生まれたのはいつからだろう。やっぱりソシャゲのガチャが主流になってからかな。

そりゃ好きなキャラならグッズ出たらめちゃくちゃ買いたい気持ちとか分かる。オタク冥利に尽きる話だと思うよ?

でも「推しの為なら他の全てを削ってでも出るまで回す!出たなら実質無料だ!」みたいな文化。

冗談混じりじゃなくてガチでこれをやってる人が、最近多い気がして怖い。

別に本人が幸せならそれでいいとは思うけど、財力にも限界はあるだろうし疲れないんだろうか。

オタク活動を必ずSNSで報告

上の”推しに貢ぐ話”から繋がるのだが。

SNSで「○○万円貢ぎました!」からソシャゲのスクショをドーン!とか。

推しの大量のグッズの写真を並べてSNSにドーン!とか。

好きな作品の劇場版を「○○回見に行きました!」とわざわざTwitterに書いてアピールしてみたりとか。

推しへの愛=貢いだ金額、みたいな風潮。

貢いだ金額でのマウント合戦か何かだろうか。

別に好きという感情は本人が好きならそれで良くて、わざわざ他人と比較するものではないと思うのだが。

何か「推しへの愛」をダシにして、自己顕示欲を振りかざしたいだけのように見えてしまうのだ。

そんな”推し活”が長期間続くとは思えないのだが。

コンテンツが早いスパンで消化される時代だから問題ないのだろうか?

まあこういうタイプのオタクはコンテンツに実際に大金を落としているわけで、コンテンツを支える大切な存在だ。大事な大事なお客様。

公式側からもありがたい存在だろう。私のような貧乏弱小オタクなんかより、遥かにコンテンツに貢献している。うん。

私はそこまで貢げない分、文章や絵などの媒体でそのコンテンツの良さを周りに広める形で貢献したいなぁとは考えていたりする。

「尊い…(語彙力)」が常套句

推しに対して「尊い…」とか「無理…しんどい…」とかいう言葉を使うのが昨今のオタクのトレンドである。

私も、上の緒方智絵里のかわいいかわいい姿を見ると恍惚とした顔で「尊い…天使…」としか言えなくなったりするが。

この「尊い」をきちんと言語化すると下記のようになる。

「可愛らしい顔立ち、小動物のような儚さがありながら芯の強さを持ち合わせていて、何事にも一生懸命なところ、全てを許容してくれそうな優しい面、声を聞くだけでホワホワと耳を蕩けさせて幸せに導いてくれる。尊いマイエンジェル智絵里」

「デレステ始めてしばらく経ってもSSRが1人も出ていなかったあの日(※私はリセマラをしない)、一人の天使が舞い降りた。その名は緒方智絵里。あの日、僕に希望を与えてくれた。こんなんで愛が芽生えないわけがない。マイエンジェル」

いや我ながら書いてて気持ち悪い。絶対早口で言ってる。

まあこの気持ち悪い長文をいちいち言うのも大変なので、ひっくるめて「尊い…」と言っているわけだ。

で、この便利な「尊い…」という言葉。推しへの愛を表現するうえで、本当に便利な言葉なのだが。

「好きなコンテンツや推しの魅力はどんなところか教えてください」と聞かれた時に、本当に「尊い」しか言えない人が多いんじゃないかなと思う。マジで深刻な語彙力不足。

古のオタク的には、推しへの愛を語ってナンボだと思うので「お前それしか言えないわけ?」となってしまうのだ。

もちろんそんな人たちだって、尊いの中に色々具体的な理由とか語りたいものは持ってるのだと思う。

だが、それを言語化出来ない。語彙力がないというよりは、自分の言葉で表現する事を放棄している。

「尊い」などの便利な共通言語が存在するので、それに逃げているというか。いつも逃げてりゃそりゃ語彙力なんて上がるわけない。

だから、すごく薄っぺらく見えてしまうのだ。

推しへの愛くらい自分の言葉で語ってみろ。

好きなコンテンツを気持ち悪く語ってこそのオタクだと私は思っている。

語彙力の有無の問題じゃない。好きなものなら自然と語りたくなってしまうものだと思うのだが。

解釈違いは絶対に許さない

まず”解釈違い”という言葉。これも最近の言葉だが、もともと腐女子界隈あたりが使い始めたんだと思う。

いわゆる「このキャラがこんなセリフ言うのとかありえない」とかそんな類のやつだ。

自分の理想のキャラ像と違うものを見たら、それは”解釈違い”。

最近は公式と解釈違いで炎上、なんて事も多々あるらしい。恐ろしい世の中だ。

公式との解釈違いと聞いて、私がぱっと思い浮かぶのが「好きな漫画がアニメ化されて喜んでみたものの、想像してた声と違った」なんてので、そんな事は昔からよくあった。

アニメを見ていて「このキャラってこんな言動しなくない?原作とちがくない?」なんて思ったりする事も多々。そんな時は個人のブログに文句を書き綴ってみたりしたものだ。当然、あくまで一個人の意見・感想としてである。

画力や文章力、創作意欲がある人なら「いやいやあの展開はないでしょ!自分ならこうするね!」と二次創作に走ったりもするだろう。というか公式にないIFの世界こそが二次創作の醍醐味だと思わなくもない。

つまり、解釈違いという概念は昔から存在する。人の数だけ感想は存在するし、人それぞれの解釈があるんだから当たり前だ。

最近の”解釈違い”の何が問題かというと、公式に「私の好きな○○(キャラ)はこんな事しない!」とわざわざ直接噛み付いたりするのだ。

どんなにクソみたいな設定や展開でも公式は大正義なのであって、直接文句をつけたところでイチャモンでしかない。

正直、公式からしたら「お前の解釈なんて知ったこっちゃない」となるわけだ。

またもや昔話をするが、私は765時代のアイドルマスターが大好きだった。

9・18事件というとんでもない古の事件がある。ググれば出てくるので詳しくは説明しない。今だったらどれくらい炎上していただろう。

あの事件がアイマスを一旦離れるきっかけになったし、あれ以来”公式”というものを心から信じられなくなった気がする。

まあ今でも765アイドルは好きだし(多少複雑な気持ちはある)、SideMも普通に触れられるしいいんじゃない?と思う。

あの事件は今思うとまさに”解釈違い”だったと思う。

何というか最近の”解釈違い問題”は、TwitterなどのSNSのおかげで、公式との距離が近づきすぎた結果なんだろうなと思う。

公式に限らず、コンテンツを提供する側と享受する側。

その距離が近いのはいい事もたくさんある反面、悪い事もある。

その最たる例が誹謗中傷で、最悪人の命にも関わってくるわけだ。

オタクコンテンツっていうか、声優やアイドルの結婚みたいな話にも通ずるんじゃないかなと思う。

直接噛み付くのも問題だが、その解釈違いについて「私はこう思っているが、この人の解釈は私の思っていたものとこうこうこういう部分が違っていて好きになれない」と具体的な言葉で説明出来ないのも問題だ。

だから解釈違いの相手について「あれは私の考える解釈と違う。気にくわない。クソだ。ゴミ。○ね」みたいな誹謗中傷しか出来なくなる。やっぱり語彙力の問題もあるんじゃないかな。義務教育の敗北。

そのコンテンツへの愛が深すぎるゆえ、解釈違いを許せない気持ちはまあ分からなくもない。あまり分かりたくはないが。

だからといって、解釈が合わない人に対していちいち噛み付く事はないんじゃないかと思う。別に無理に仲良くしろとは言わないからさ。

例えば私は、ジャンプみたいな少年漫画のBL系二次創作が苦手だ。

中学生くらいの頃に二次創作BL雑誌だと知らずに、間違えて立ち読みしてしまった事があるが、某キャラ同士のキスシーンを見てしまい、吐き気がした覚えがある。

BLにあまり抵抗が無くなった今でも苦手だ。が、別に滅びろとは思わない。

それが好きな人を否定するつもりもないし、無理にこっちに押し付けてこなければ、友達がそういうのを好きでも全く問題ない。

多様性は認められるべきだ。

例えば初音ミク。ボカロはいまや息の長いコンテンツになった。

初音ミクの凄いところは、数多の解釈が認められているところだ。

クリエイターによってかわいらしい歌姫になったり、メンヘラみたいになったり、クールになったり様々だ。

もちろん多少の好き嫌いはあるが、そこに”解釈違い”は存在しない。これがミクさんが長く愛される理由の一つなんだと思う。

まとめ

色々書きすぎて纏まるのか心配だが、何とか〆ていこうと思う。

結局、”最近のオタク”は好きなものに対する愛情の表現方法を知らないのかなと思う。

だから大多数がやっているような分かりやすい愛情表現をする。

大金を貢ぎ、それをSNSでアピールする。

褒め称える語彙力がないので、とりあえずみんなが使ってる「尊い…」という言葉を使う。

”解釈違い”について必要以上に叩く。

みんながこうしてるから私もこうする、こうしておけばオタクの仲間入りっしょ!みたいな感じがする。

私にとっては、こういうタイプの人が真のオタクだと思えないし、薄っぺらいし、まさにオタクの解釈違いだなぁと思ってしまうのだ。

まあ古のオタク(老害)の戯言と言ってしまえばそれまでですね………。

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