マチュピチュ展に行った。
六本木ヒルズのギャラリーでやっている展覧会だ。
この美術館に行くのは2回目だったが、相変わらず凄い施設である。
そもそも六本木ヒルズの52階にあるんだからその時点で特殊だ。
ペルーの古き文化の儀礼に使われた土器や彫刻、まばゆい金の装飾品など色々飾られていた。
展示の演出も凝っていた。
南米という強大な自然とともに生きた人たちは自然を恐れ、だからこそ神に祈り、生贄を捧げ、子を育み、共同体として身を寄せ合って暮らしていた。
共同体を束ねるために、あらゆるルールや慣習、宗教が生まれた。
自然を鎮めるための生贄という慣習。
現代の価値観だと非人道的でしかないのだが、科学が無く自然と神を信じるしかなかった古い人間たちには必要なものだったのかもしれないとも思う。
昔は個人のアイデンティティは今よりかなり少なく、共同体に属する一部としてのアイデンティティが大きかったのではないかと。
だからこそ生贄というシステムが、ペルーに限らず世界中の各国で長く続いていたのだろう。
よくフィクションで生贄に選ばれたらその本人と家族たちは涙するという描写がある。
これは現代人ならではの感覚だと思う。
そもそも昔の人にとって災害などは神の怒りそのものであり、収穫量によって大飢饉が起きる可能性が常にあった。
科学的解明がなされていない謎の現象に常に脅かされていたからこそ、身を寄せ合って国という共同体を作り、儀式などを盛んに行っていた。
生贄に選ばれた本人としては自分が死ぬか共同体が死ぬかであり、それなら迷わず前者を取っていたであろう。
そもそも昔は共同体も家族の延長みたいな感じだろう。
血縁もある人ばかりだろうし…
言ってしまえば親戚の集まりみたいなものだ。
個人にフォーカスするのはごくごく現代的な価値観であり、災害が科学によって解明され、技術力により災害対策や食事の心配が無くなった。
だからこそ人々は個人というものに初めて目を向けられるようになったと言える。
つまり「生きる意味について考える」というのが、実は恵まれているからこそ可能な行為だとも言える。
科学が発展したからこそ、現代日本を生きる我々は人身御供や儀式などに縛られず、個の利益を追求出来ているとも言える。
災害が発生しても、誰かを生贄に捧げるのではなくテクノロジーで対策を考える事が出来る。
科学に感謝である。
そんな事を考えたりしつつ。
六本木を離脱して港区、渋谷区、目黒区あたりをぶらぶらと歩いた。7kmぐらい。
東京は街によって全く雰囲気が変わる。
面白い。飽きない。
流石に今週は歩きすぎて疲れた。
心地よい疲労感ではある。
今月、来月と結構予定が詰まってるんだよな。
1月はあっという間に終わりそうだ。












