ピーマンにかぶりつく。
丸々1個のピーマンにかぶりつくのって人生初めてだなぁと思いながら。
ピーマンを食べる時は、大抵薄切りにするか細かく切るかだった。
今回作ったのは、そのピーマンを丸ごと潰しながらフライパンに放り込み、鶏肉、にんにくと一緒に蒸し焼きにする料理だった。
ヘタの部分と種は普通に食べられるらしい。
というか種の部分は栄養がたっぷり詰まっているらしい。
飲食店のメニューにピーマン料理などめったに無いし、あったとしても種とヘタを取り除いて細かく切ったものだろう。
となると、自分で作らない限りはピーマンが丸々入った料理など食べる機会が無いという事になる。
でかでかとしたピーマン、当然細かく切ったものより食べづらい。
思いっきりかぶりつく事になる。
当然絵面は悪いが、さいわいここは自宅だ。
実家で暮らしてた時は、家でも親に「行儀が悪い」と口うるさく言われたものである。
もちろん、外で食べる時は私も行儀よく食べる。
だがここは家だ。
自宅で私がピーマンにみっともなくかぶりついていたところで、気にする人間などいない。
行儀もクソもない。自由だ。
そんな事を考えながら、がつがつ食べた。
塩とこしょうのシンプルな味付けで食べるピーマンと鶏肉はおいしかった。
丸ごとのピーマンに思いっきりかぶりつく贅沢。
こういう贅沢もあるのだなぁと思う。
最近、サイト作りの手応えを感じている。
このエッセイもブログ記事も特に誰かのために書いてるというわけでもないが「ちゃんと読んでくれてるな」みたいな反応を貰える事が徐々に増えてきた気がする。
単純な「いいね」1つだと正直何なのか分からない。
本当に読んでくれた人?営業いいね?読みましたというただのサイン?惰性で押した?それとも誤タップ?
いいね1つでも色々あるわけだが、どういう意図で押されたものなのかは何となく分かるものである。
「あぁ、この人はこのハッシュタグの投稿を見境なくいいねしてるだけだな。多分リンク先の記事はろくに見ちゃいないな」とか、
「この人は結構読み込んでくれてるみたいだ」とか。
よく書いているが、私は目先の「いいね数」には興味が無い。
読まれてもいないのに「いいね」だけが積み上がったところでむなしいだけだ。
話が脱線するが、SNSの上澄みに見えるインフルエンサーについて。
実はフォロワーの数に対していいねなどのアクション率が低い、など色々あるようである。
これをエンゲージメント率というらしい。
たしかに、私もフォローするだけしてろくに見てもいないみたいなアカウントがたくさんある気がする。
とはいえ、少なくとも「いいね」などの反応さえあればこのエンゲージメント率にカウントされるらしい。
でも先ほど述べたように、その「いいね」には営業目的、惰性、誤タップが紛れ込んでる可能性があるわけである。
そう考えると、SNSマーケティングというのもだいぶ茨の道な気がする。目先のフォロワー数やいいね数に惑わされて「ファンがたくさんいて応援してくれる!」「フォロワー1000人突破!」と思いきや、実態はそうでもなかった…なんて事もたくさんありそうだ。
一部のめちゃくちゃ成功した事例ばかり持て囃されて、みんな必要以上に夢見てるだけなんじゃ?とも思う。
踊る阿呆に見る阿呆とはこの事だろうか?違う気がする。
話を戻そう。
最近、私の文章をちゃんと読んでくれる人が少しずつ増えたような気がするという話だ。
内容に伴ったコメントを貰う機会も少しずつ増えているし、いいねだけしていく人でも「この人はちゃんと読んでくれたっぽいな」と何となく分かる。
いちいちコメントに対して「ありがとうございます〜」みたいな返答をするのも白々しい気がして何も返さない事が多いのだが「こういうコメントは結構糧になってます、ありがとうございます」みたいな話。表明。
公開している以上、やはり自分の文章が誰かに読んでもらえるというのは嬉しいものである。
こんなまどろっこしい文体になっているのは、最近森博嗣の「水柿助教授」シリーズを読んでいるからに違いない。
だらだらとしたストーリーらしいストーリーもない小説なのだが、こちらも肩肘張らずにだらだら読めるので嫌いじゃない。
