凡シュール

質のいい文章、わるい文章

凡シュールのエッセイ

2021年3月4日にnoteで公開した記事のリバイバル。
現在移行作業中のため一時的に読みづらくなっていますが後日修正予定です。ご了承下さい。

炎上案件に対して、加担も否定もせずただ淡々と自分の意見を書いている。思えば私はずっとこのスタンスだな。

村上春樹のSNSに対する発言が話題になっていた。

自身がSNSをやらない理由。

「大体において文章があまり上等じゃないですよね。いい文章を読んでいい音楽を聴くってことは、人生にとってものすごく大事なことなんです。だから、逆の言い方をすれば、まずい音楽、まずい文章っていうのは聴かない、読まないに越したことはない」

村上春樹自身がこの考えを持ち、SNSを遠ざける事自体は自由にすればいい。個人の自由だ。

Twitterではこの発言が軽く炎上になっているようだが、ただの個人の見解を述べているだけだし、いちいち噛み付くような事でもないと思う。

ただ、この発言は個人的には結構的外れなんじゃないかなと思う。

もちろんこの考えを持つ村上春樹を非難する気はない。この考えはいい文章を追い求め続ける村上春樹にとっては正しいものなのだろう。

ただ、自分は必ずしもそうは思わないかなという感想を述べるだけである。

まずい音楽はおいといて、まずい文章。

確かにSNSにはそういったまずい文章が溢れている。

構成など無視したただの感情の掃き溜め。推敲もクソもないものばかりだ。

まさに質の悪い油で揚げられたジャンクフードだ。

対して、名作小説などはいい文章だ。

洗練された言葉遣い、考え抜かれた構成。

こだわりの食材で時間をかけられて作られた高級料理のようだ。

村上春樹の小説も高級料理の部類に入る。

何作品か読んでいるが、言葉遣いが洗練されているなと感じた。

私の文体も、多少影響されている節はある。

ただ、洗練されすぎててどこか物足りないとも感じるのが正直なところだ。

大好きな「ライ麦畑でつかまえて」の邦訳は、村上春樹訳ではなく野崎孝訳の方が断然好きである。

こだわりの食材が使われた高級料理はたしかに美味だ。

だが、B級グルメにはB級グルメの良さがあるし、ジャンクフードだって食べたい。

ジャンクフードの食べすぎは身体に悪いが。

明治・大正の文豪の小説も読むし、海外作家の名作小説も読むし、現代の小説も読むし、それこそ村上春樹も読むし、ラノベも読むし、SNSの文章も読む。

雑食だ。

往年の名作小説が良いのは言わずもがな、現代の小説やラノベだって、それぞれの良さがある。

SNSの文章はハッキリ言ってまずい文章だらけだ。

質の悪い油ギットギトのジャンクフード。

いや、ジャンクフードですらないかもしれない。吐瀉物?

しかし、画面の向こうには大衆の生の声がある。

また、時たまゴミの山の中でキラリと光る宝石もある。

名作小説には決して真似出来ない魅力がそこに広がっていたりするのだ。

逆に、まずくて悪い文章に敢えて触れる事によって、いい文章の魅力を再確認する事だってある。

だから私は、「まずい音楽やまずい文章は聴かない、読まないに越したことはない」とは思わない。

さて、冒頭の補足だが。

村上春樹はこのインタビューの中で「いい文章を読んでいい音楽を聴くってことは、人生にとってものすごく大事なことなんです。」と言っている。

この言葉は実際には、「(僕の)人生にとってものすごく大事なことなんです。」となっている。

なんなら氏は「SNSをやってまずい音楽やまずい文章に触れるのは良くないですよ!皆さんやめましょう」と、働きかけたわけではない。

ただ、村上春樹自身が「いい文章を読んでいい音楽を聴きたいからそうではない(と個人的に思っている)(だから自分は)SNSはやらない」と述べているだけである。なんか国語の授業みたいだな。

こんなの個人の自由じゃん。

私としては「この人意識高すぎるしちと面倒くさい、そして多分友達にはなりたくないタイプだけど作品はまあ好きだな」くらいの存在である。

必要以上に崇拝もしないし、否定もしない。

別に村上春樹がSNSを否定するからといって、SNSをやっている人間全員がクズ認定されたわけではない。

みんなそれぞれ好きにすればいい。

果たしてこの文章は質のいい文章なのか?悪い文章なのか?

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