世田谷のボロ市にでも行こうと思ったが、作業が乗ってしまい集中したいのでやめる。
進捗次第で明日行くかもしれないが、今は作業に明け暮れたい気分かもしれない。
ひたすらイラレとNotionに向き合っている。
毎日寒い。
が、いまだに部屋に暖房を入れていない。
電気毛布だけで乗り切ろうとしている。
雪国でもないし、夏と違って寒いからって死ぬ事はないしなぁ。
それに、寒くなったら運動する口実になる。
室内で軽く運動するだけでそこそこあたたかくなるものだ。
あと風呂をサボらない理由にもなる。
冷え切った身体を温めるには、風呂に浸かるのが手っ取り早い。
昨日は久々に近所の図書館に行った。
『学問のすすめ』の続きを読もうと思ったのだが、あいにく貸出中のようだった。
仕方がないので、別の本をぶらぶらと探す。
貸出禁止コーナーの事典を見ていると『世界民族百科事典』なるものを見つけた。
編纂は国立民族学博物館だ。
ためしに読んでみた。
当然文字はぎっしりで、鈍器のような本である。
ぎっしりの文字が600ページ以上だ。
内容はまだ少ししか読んでいないが、とても面白い。
民族という言葉の定義、エスニック、エスニシティという概念の記述を読んだ。
高校生の頃にこういった本に出会っていたら文化人類学の道に進んでいたかもしれないな。
図書館の自習コーナーでは、中高生がひたすら受験勉強していた。
彼らは何を思って勉強しているのだろう。
大半の学生が、受験が終わって用済みになった知識は何もかも忘れてしまうだろう。
私もそうだ。高校生の頃の事などうろ覚えだ。
当時の私は受験勉強やテスト勉強というもの自体に疑問を持っていた。
こんな学び方で何の意味があるんだろう?と。面白くもないし。
そんな事気にせずひたすら暗記し続ければ良いというのは分かっていたが、そういう気分にはなれなかった。
だから「楽しく長く覚えられる学習方法」を当時から模索していたように思う。
結局当時の私には分からなかったが。
高校生の頃から、敷かれたレールそのものにも疑問を抱いていた。
結果、センター試験をサボるという明確な道の踏み外し方をした。
直前に親にはちゃんと謝った。
普通は止められるかもしれないが、うちの親は「好きなようにやりなさい」と言った。
高校生当時はやりたい事なんて何もなかったし、このまま大学に行ったところで何にもならなさそうだなと判断した。
就活もバカみたいだなと思っていた。
大学に行っても中退する可能性すらあるなと思った。
どうせ中退するとなると、学費が無駄になる。
それを避けるために「最初から行かない」という選択をした。
無理矢理馴染もうとしてもどこかのタイミングで病んでいたに違いない。
結果、人生ハードモードになったわけだが。
しかし表向き順風満帆な経歴を持つ人でも、病んでる人や上手くいってない人などそこら中にいる。
令和の今、経歴など大した意味を持たない。
経歴が立派でも病む人は病むし、実力が無い人はどんどん置いていかれる。
経歴や過去の実績に固執しているだけの人間は疎まれるだけだ。
それが非情なまでの現実。実力主義。
学校で専門的に学ぶために、受験勉強というほぼ無意味な詰め込み学習を強いられるというのも不思議なものだ。
福沢諭吉が現状を見たら嘆くかもしれない。
そんな事を考えたり考えなかったり。
本当に興味ある分野を学ぼうと読書する私と、詰め込み学習をやらされる受験生たち。
それが図書館という同じ空間にいる、というのもなんだか奇妙なものである。










