2020年7月9日にnoteで公開した記事のリバイバル。
現在移行作業中のため一時的に読みづらくなっていますが後日修正予定です。ご了承下さい。
美術館で作品が一切飾られていない展示室を見て回った記録と、それに付随する考察。
この頃になると、今の文章にだいぶ近い語り口になっているな。
世田谷区をふらふら散歩していたら砧公園にたどり着いた。 砧公園には世田谷美術館がある。初めて来た、というか美術館がある事すら知らなかったのだが、せっかくなので少し覗いてみることにした。 入館時に検温し、個人情報の紙を書いて提出させられた。あまりの厳重っぷりに少し驚いたが、このご時世なので仕方あるまい。
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「作品のない展示室」という企画展をやっていた。 企画展といっても、展示物はほとんどない。今までのイベントのチラシなどが何点かある程度だ。
広い。シンプル。静か。 足音がコツコツと響く静寂。
きっと展示物がある時はもう少し華やかな空間になるのだろう。 まるで料理が盛られていないお皿のような。あくまでも主役は料理である。即ち作品である。 その主役を引き立たせる為の存在が、お皿であり展示室なのだ。 主役のいないステージは、少しだけ寂しい感じがした。
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作品を引き立たせる展示室。 料理を引き立たせるお皿。 商品を引き立たせるお店という空間。
そう、お店という空間は商品を引き立たせ、客の目を魅きつける為に様々な工夫が凝らされている。 当たり前っちゃ当たり前である。 お店で見かけて「これいいな」と思って買ってみたものの、自宅で改めて見ると「何でこれを買ってしまったんだろう」と思ってしまう、そんな経験はないだろうか。 この現象は、お店という空間で商品の魅力を最大限に引き立たせているから、通常より魅力的に見えてしまうものなのだろう。 “バフがかかっている”といったところか。
インターネット通販が定着して久しい昨今だが、リアル店舗の需要も無くならない理由はここにあると思っている。
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これはデザインに通ずる話なのだろう。 デザインとは日常生活のあらゆるところに存在しているのだ。 お店や家の内外装、商品パッケージ、広告…挙げていくとキリがない。
モノが溢れるこの時代、数ある中から是非選んでもらおうという工夫。こんな視点で町を歩くだけで面白い。
主役が輝くのは脇役あってこそだ。
