凡シュール

さみしさを受け容れた日

凡シュールのエッセイ

2021年3月10日にnoteで公開した記事のリバイバル。
現在移行作業中のため一時的に読みづらくなっていますが後日修正予定です。ご了承下さい。

果たして今の私にこんな純粋な文章が書けるだろうか?

孤独とは一般的に辛いことだとされる。

孤独を紛らわす為に人は何かにのめり込んだり、それこそSNSにハマったりする。

「ひとりぼっち=寂しい人」という常識も出来上がっているようだ。

”大人とは何か”を自問自答する事がよくある。

かつて「人は自分の中でたくさん考えたり悩んだりするごとに大人になっていく」など結論を出しているが。

そうでもあるし、それだけじゃないなと思った。

私が大人になった日はいつなんだろう。

確実に言えるのが、20歳になって成人した時ではない。

20代の私はずっと子供のようだったと、今なら思う。

今も未熟者だと自覚はしているが、大人になってしまったなと。

「人はみな孤独である」

この事実を受け容れた日、私は大人になった。

いつだったか明確にはわからないけど。

夫も、両親も、数は少ないがそれなりに笑い合える友人もいる。

好きなものはたくさんある。

孤独を忘れられるひとときはある。

だが、本質的に人は孤独なんだなと気付いた。

いや、その事実にはもっと前から気付いていた。気付きながらも、孤独から逃れようともがいていた。

もがいたところで本質的に人は孤独なのだ。

それは当たり前の事なのだ。

何をするにもさみしさはつきものなんだ。それは悲しいことじゃない。

友達と楽しく遊んだ帰り道。大好きな物語のエンディング。楽しいライブの終わりが近づいているのを感じた時。季節の移り変わる時。1日の終わり。

何事にも終わりが必ず訪れるように、さみしさはどこにでも潜んでいる。

「まだ終わらないでくれ」「頼む、ずっとこの時間が続いてくれ」

そうみっともなく懇願したところで、時間は無情にも過ぎ去っていく。

刹那的な幸せの時間。

終わってしまった後に残るものは。

残酷なまでのさみしさとともに、思い出という宝物をくれるのだ。

さみしさってやつは、楽しいとか、大切とか、大好きといった感情とセットでやってくるんだ。

失って初めて、あの時間はとても尊いものだったんだなと気付く事だってある。

そうやって、さみしさが気付かせてくれる事だってたくさんある。

だから私は、毎日さみしいけど楽しいです。

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