ようやく鼻水も少し落ち着き、喉の痛みもマシになってきた。
やっぱり山岡荘八の『徳川家康』を読み進めている。
もともと家康の人生って結構地味だという印象だったが、覆った。
特に最初の息子の次郎三郎信康を自分の指示で切腹させる、などはなかなかに壮絶だ。
その流れで最初の妻の築山御前も喪っている。
まあ家康とは相性最悪だし、とんでもない悪女ではあったのだが。
歴史とはただのデータの羅列でなくて人の営みである以上、そこから読み取れる事は多々あるのであろう。
戦国時代は命と命のやり取りが当たり前の極限状態だからこそ、信長秀吉家康のような英傑が一時代に介したと言える。
武田信玄然り。
この時期に『徳川家康』を読めて本当に良かった。
まだ全然読み途中ではあるのだが。
最近自分の中で「資本主義の呪縛」が解けてきたように思う。
射倖心や購買を煽るような広告、文言に心がなびかない。
ただ自分が必要と思うか思わないか、その一心で購入を決めるようになった。
この「必要」の定義とは…
生活必需品のみという意味でない。
過去に1ヶ月だけ生活必需品のみ買うという縛りを設けてみた事があるが、たった1ヶ月で精神がガタガタになった。
私にとってぬいぐるみなどを買うのは、この乱世のような資本主義社会での、己の感性の確認。
ぬいぐるみなら何でも良いわけではなく、良いと思った物のみ買う。
これはただの免罪符だろうか?
それとも資本主義の呪縛を打ち破りつつある者の言葉だろうか?
どこからが無駄遣いでどこからが精神的充足になるかの見極め。
この見極めをかなり慎重にやるようになった。
私にとっての購買、買うという行為は
「この商品が素晴らしい」と思う投票、
「この商品が長く続いてほしい」という祈り、
「この商品を大量の商品から選び取った」という選択、
「その商品を選び取った自分は何か」という哲学、
が含まれている。
だからわざわざ「お迎えする」と飾り立てなくても、それは一つの神聖な儀式だ。一種の戦とも言える。
前に「お迎えする」という言葉に違和感を抱いた事があると文章にした事があるが、これは「お迎えする」そのものより「購入する」「買う」という言葉が粗雑なものとして扱われる事への疑問だったように思う。
購入という行為の重みを忘れない事。
これが資本主義社会の狂乱から自分を救う一つの楔なのだと思った。
まあ私も人間であるゆえ「なんとなく買う」時は0ではない。
ただ、自分の購入行為がどの属性なのかを常に意識している。
生活用品、感性の確認、知見拡大のため、なんとなく…。
そして最近は特に「なんとなく買った」という購入行為はだいぶ減ったように思う。











