凡シュール

私が創作大賞に応募する理由。

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2025年4月23日にnoteで公開した記事のリバイバル
結局創作大賞もイミテーションの宝石が評価される場なのでは?と今なら思う。

noteで創作大賞が始まった。
自分の文章が出版社の方の目に止まる可能性が高いイベントである。
まさにドリームチャンスだ。
私自身、正直チャンスだなと思っている。

私はずっと、自分の考えと文章に信頼と自負を持っていた。
感性ベースのひらめきをそのまま出してしまうのではなく、理屈の通った文章に落とし込む。
感覚を理屈でラッピングする行為
これが私にとっての書くことである。

実際これまで、ふと感じたちょっとした違和感のようなものを文章に落とし込んできた。
「最近のオタクって、作品が好きなんじゃなくて、作品を好きな自分が好きなんじゃないの?」とか
「イラスト初心者講座って全然初心者に寄り添ってなくない?」とか、そういったものである。

自分の過去記事を読み返してみても、納得のいく文章が多いと思う。
これらの文章は私自身の脳内整理のために書いているにすぎない。
とはいえ、結果的に悩んでる誰かの助けになる文章かもなぁとも思う。
助けになってほしい。
迷子の人に地図を渡すような文章

だからこそ、多くの人に私の文章が届いてほしいなぁと思う。
まだ見ぬ誰かに。
そんな事を思ったり思わなかったりして、毎日noteを書き続けている。

これらの考えは、単純なバズりたいというものとは全く別である。
バズるというのは、いわば沸騰だ。
急激に熱くなり、一瞬で冷める。そんな現象。

そうじゃない。私は沸騰したいわけではない。
じんわりと熱を帯び続けていたいのだ。
ゆっくりじっくりと誰かに届く熱。
湯たんぽ、布団、ホッカイロ…。どれもホッとするものだ。

ぶっちゃけバズろうと思えば弾はいくらでもある。
「SNS疲れしてる人のための数字を廃したSNS」の具体案とか、従来の感性を理性に従属させる思想ではなく、感性と理性の共存を模索する案とか。
ChatGPTと日々壁打ちして深掘りしているものだ。

が、これらの考えは私という存在のコアに近いものだ。
雑に出して消費されていいものじゃない。
だからまだ表に出さず温めている。
タイミングを見計らっているともいえる。

改めて言うが、私はバズりたいわけではない。
チヤホヤされる事に興味は無いし、むしろめんどくさそうだ。
だが、全く無視されたいわけではない。

ここに大きなジレンマがある。
現状のnoteは、バズ狙いの記事が評価される傾向にある。
noteに限らず全てそうだ。数字が全ての世界。
私の文章は、そんな世界では映えづらい代物だと思う。
結果、埋もれる。
良い物だけ作っていても評価されるわけではない。

世の中のインフルエンサーたちも、そういうジレンマに苦しみながらバズという武器を手に持ったのかもしれない。
最初は純粋な動機で活動し始めたのに、インフルエンサーになって数字至上主義に飲み込まれてしまったような人もたくさんいる。

人気で評価されているnoteを見てみる。
ラッピングが綺麗で上手だなと思う。
包みは綺麗だが、中身は大したことないなと感じてしまうものも多い。

加工前の石に過ぎない原石より、イミテーションの宝石が評価される時代だ。
私は地味な原石だ。誰か見つけて!見出してくれ!
そう願いを込めて。
これが、私が創作大賞に応募する理由である。

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