凡シュール

社会の方がおかしい

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2025年5月18日にnoteで公開した記事のリバイバル
理性感性論の下地とも言える文章。

最近よく思う。
今まで社会不適合者なのは自分だと思っていたが、どうやら社会の方がおかしいのではないか?と。

おかしいというか、社会の掲げる「立派な人間」の間口が狭すぎるというか。
だからみんなだいぶ無理して、「立派な人間」のフリをしている。
もはや茶番だ。

多くの人が無理する事によって様々なバグも起きている。
というか人類史を振り返っても、感性を極度に抑えつけた社会というのは、最終的にその反動で感性の大暴走が起きている。

第二次世界大戦時が直近で最も大きな感性の暴走が起きた事例ではなかろうか?
ナチスも、大日本帝国も。
あとはフランス革命昭和の学生運動も、突き詰めれば感性の暴走もとい理性への反発・破壊と言えそうだ。

感性というのは全くの自由にさせるとコミュニケーションが成り立たなくなってしまう。
とはいえ、その感性そのものを否定するのは違う
檻の中に閉じ込めていいものではない。殺してしまってもダメだ。
首輪とリードをつけてそれなりに制御出来る状態がベストだ。

先日、私が元々かなり怒りっぽい性格だったが、最近ようやく制御出来るようになったという記事を書いた。あれと一緒だ。

個人の感性を無理矢理抑えつける事により、徐々に社会に歪みが出来ていると感じる。
SNSやインターネットが極端な数字や成果主義になった結果、炎上という現象が一般的になってしまった。

もちろん誹謗中傷は良くない事という前提で、彼らの行いを考察する。
燃やしている側はただ感性の行き場を無くしてしまっただけなのではないだろうか?
感性をどう扱えばいいか分からない、湧き上がる苛立ちの処理方法が分からない。
だから社会的に「こいつは悪人だ。遠慮なく叩いていい」とされた人間に心無い言葉を投げ付けているのではないか?

いわば感性の暴走とも言える。
扱い方が分からない感性の行き場。
だが社会では感性の扱い方なぞ誰にも教えられない。
そもそも感性自体が「子供っぽいもの」「未熟の証」「社会では出してはいけないもの」として扱われているまである。

極端な理性型の社会、感性のズレ、感性の暴走。
炎上に限らず様々な事柄が説明出来るのではなかろうか?

ついでに言うと、感性とはつまり感情も含まれる。
誰しもが持っていて、最も人間らしいものと言える。
その感性の存在が全く考慮されていない社会構造はおかしいと思わないだろうか?
結果、感性が強く抑えきれなくなった人は先述の炎上のような他人への不必要な攻撃に回ったり、精神を病んだりするのではなかろうか。

あと、HSPという分かりやすいラベルに飛びつく人たち。
HSPというのは、つまり感性が強い人の事である。
正確には、自分の感性と理性社会とのズレを感じている人。

あの定義が一つだけ明確に間違っていると思っている事があって、人は誰しも感性を持ち合わせている。
だからHSPなんていうのは繊細でも特別な人種でも何でもなく、誰しもが起こりうる理性社会と自分の感性のズレによる生きづらさを感じているという事なのではないか?という点だ。
大なり小なり、ほとんど全員が心の奥底で生きづらさを感じているのではないだろうか。

この点を無視して「私はHSPですよ!特別ですよ!繊細なんです!」とアピールするから「HSPアピールうざ…」と反発を生むわけだ。

ちなみに言うと、HSPだからと言って必ずしも他人にめちゃくちゃ配慮出来るわけではない
現に私はHSP的特徴を有しているが、友人に対してデリカシーの無い発言をしてしまい、後悔した事が何度もある。
後から思い出してめちゃくちゃ気にするのはHSPらしいと言えるかもしれないが。

と、さすがに我慢しきれなくなって色々ガーッと書いてしまった。
後日この件をもっと整理された文章としてまとめたいと思っている。

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