凡シュール

言葉は意味を持った瞬間に語りかけてくる/noteではエッセイを読みたい

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2025年2月3日にnoteで公開した記事のリバイバル
私はいわゆる怪文書が読みたいんだと思う。
誰かに向けて書いたのではなく、ただひたすら内省を重ねたような文章。
誰かの思考の断片をなぞりたいのかもしれない。
作品という形でなく、ラフのような。それは本では得られないものだ。

noteは様々な記事に溢れている。
役立つ情報もたくさんある。
おすすめ記事欄にも多種多様の記事が流れてくる。

私は巷でバズりやすい記事にはあまり食指が動かない。
お役立ち記事というやつをわざわざnoteで読もうとは思わないからだ。
調べ物をしていて、たどり着いた記事がたまたまnoteだったと言う事は何度もあるが。
そういう時は非常に助かっている。

noteを立ち上げて他人の記事を読みたい時は、エッセイを読みたい。
具体的に何かの役に立つ文章ではない。
だが、そこからは誰かの人生が垣間見える
些細な日常の1ページに過ぎないとはいえ、その奥には書いた人の人生がある。
見ず知らずの人なのに、文章を読むことによって少しでも共有されるのが面白い。

言葉とは不思議なものだ。
言葉を知らない人にとっては意味不明な記号の羅列、音のかたまりに過ぎない。
実際、ロシア語なんか見てもわけわからない文字列にしか見えない。
韓国語のハングルもそうだ。
だが意味を知った瞬間、それらは強く訴えかけてくる。

言葉一つで感情が揺さぶられる。
不思議なものだ。

中2の頃、クラスメイトの女子2人とウマが合わず、心無い事を言われ続けていた時期がある。
もちろん嫌だったのだが「言葉なんて意味を汲み取らなければ、所詮は無意味な音の塊」と思ってやり過ごしていたのを時々思い出す。

言葉を見た瞬間、ばっと映像が頭に浮かぶ。
本を読んでいる時もそうだし、Xのトレンドワードを見た瞬間にも映像はよぎる。
例えば「事故」という文字を見た瞬間に車が突っ込む様子がスピーディーに再生される。
これは考えようと思っているわけではなく、文字を見た瞬間に勝手に脳内でスピーディーに再生されてしまうものだ。

嫌な事を勝手に追体験してしまうのだ。
だからネガティブな話題からは遠ざかるようになった。
ニュース記事も見ていない。

最初のnoteの話に戻ると、私がnoteに求めるのは情報収集ではなく安らぎとかそういったものなのだろう。
だから役立つ記事とかではなくエッセイを読みたいのだと思う。

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