厄年って超絶不合理じゃないか?
私が常に抱いてきた感情である。
女性の厄年を見てみると、30代のほとんどが厄年という事になっている。
理不尽すぎんか?
これまでの厄年を振り返ると、確かに悪い事も結構あった気がする。
しかしこれだけ細かく設定されていれば、悪い事が重なるのも必然であろう。
占いを信じるようになる現象と一緒である。バーナム効果。
なぜ厄年なんてものが設けられているのか。
「この歳は一般的に病気などの不幸が起こりやすいから気をつけろよ」という注意喚起の意味合いが強いと言われている。
だが私は思った。
注意喚起というよりは、一般的に病気や親の死などの不幸が起こりやすいと言われている歳にあえて「厄年」を設ける。
こうすることで「あぁ嫌な事ばかりで辛い…。でも厄年なら仕方ないか」という心の拠り所として作用してきたのではないか?と。
何かがあった時に必要以上に自己を責めないように、悪を外部に設定しているのではないだろうか。
必要悪、である。
まぁ言ってしまえば「逃げ」の姿勢であり、ネガティブなセーフティネットなのではないか?と思ったわけだ。
「逃げ」の姿勢は現代では悪とされているが、逃げるのが必要な時だってあろう。
実際、逃げるのがなかなか許されなくなった現代社会はそこらじゅうに精神を病んだ人間がいるじゃないか。
まあ私の中のイマジナリーひろゆきなら「今どき厄年とか占い信じてる人ってバカじゃないですか?何の科学的根拠も無いデマに踊らされてますよ」とか言ってそうではある。
合理的思考ではあるが、共感性に欠けている。
半分同意出来るし、半分同意出来ない。
よく「厄年に家を買うのはやめておけ。買う場合も気を付けろ」というアドバイスを聞く。
なぜこんなアドバイスが蔓延っているのか。
厄年に設定されている歳は、人生で様々なビッグイベントが起きがちな歳である。
だからキャパオーバーして判断力が鈍くなる可能性が高くなるから「やめておけ/気を付けろ」というアドバイスになるのかなと。
とはいえ、家なんてデカい買い物は「厄年関係なく慎重にやれよ」と私は思うが。
結局は「ありがた迷惑なアドバイス」という事になる。
この合理的な現代において「厄年」などという不合理極まりない概念が消えない理由。
その要因の一つは、厄除けが儲かるからであろう。
寺社の貴重な収入源である。
「厄年」という形で不安を煽り、その不安を取り除くという形でビジネスとして定着している。
寺社は潤い、厄除けを受けた人もなんだか気分が良くなってWin-Winのトレードが成立するわけだ。
怒られそうな表現ではあるが。
ここまで考察したうえでの私は、今後も厄除けをする事は無さそうである。
人生経験として1回くらいやってみてもいいのかもしれない、くらいの位置付け。
そして「厄年など気にする必要ないな」という結論。
厄年など関係なく私は普段から慎重に生きているし、心の拠り所も特に求めていない。
ただ「こういうシステムも存在するし、それに縋って生きている人もいるんだな」と認識する程度だ。
そのくらいの関係がちょうどいいなと思った。
